袁術亡き跡の軍を引き継いだ劉勲(りゅうくん)の城を攻め落とした孫策(そんさく)は、三万人の技術者・音楽隊などを手に入れたと、「呉書」にあります。約一万に及ぶ音楽隊を袁術は養い、育成していたことになります。はたして袁術はこの音楽隊をどのように使用していたのでしょうか。
鼓吹曲の価値
中国の軍隊には昔から軍歌を歌う習慣があります。軍歌は太鼓と笛を伴奏としたため「鼓吹曲」と呼ばれていました。鼓吹曲は出陣前に兵を鼓舞するのに歌われ、さらに敵対してこちらの優位をしめし、敵の威勢をくじくために頻繁に行われていました。檄文と同じ、敵に対する宣伝効果をねらったものです。当時、最大の音楽隊を有していたと思われる袁術は、その威勢を武力ではなく、芸術でもって周囲に示したわけです。都会育ちのスーパーエリートならではの粋な演出ではありませんか。
呉での音楽隊の器用(甘寧)
袁術の音楽隊を引き継いだ呉。どのように使用したのでしょうか。例えば、曹操軍の張遼(ちょうりょう)に武勇が匹敵するといわれた甘寧(かんねい)という将軍がいます。魏との大戦である濡須口の戦いの際に、決死隊を募り、曹操の陣営に夜襲をかけて成功しました。甘寧は鼓吹をなして万歳を叫んだといいます。孫権は鼓吹曲をBGMに「曹操には張遼がいるが、私には甘寧がいる」と言って喜んだそうです。
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呉での音楽隊の器用(留賛)
他にも呉の留賛(りゅうさん)は、戦いの前に髪を振り乱して天に向かって叫び、部下とともに大声で歌をうたってから出陣しています。必ず敵を倒し、左将軍にまで登りつめました。そして音楽隊の消滅と共に戦死します。
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