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赤壁の戦いを取り上げた鼓吹曲
呉の鼓吹曲の第四曲「烏林、曹操すでに荊州を破り、流れにしたがいて東に下り、来たりて鋒を争わんとす。大皇帝は将の周瑜に命じて、これを烏林にむかえて撃ち破り走らしむを言うなり」と、題された曲には、
曹操北伐 抜柳城 (曹操は北伐して、柳城を抜き)
乗勝席巻 遂南征 (勝ちに乗じて席巻し、ついに南征する)
劉氏不睦 八郡震驚 (劉表の子らは不仲で、荊州八州は震え驚き)
衆既降 操屠荊 (みな降伏したが、曹操は虐殺を敢行)
舟車十万 揚風声 (舟車十万の軍が風音をあげて呉を攻め)
議者狐疑 慮無成 (臣下たちはためらうばかり、計略はならず)
頼我大皇 発聖明 (さいわい我が大皇帝孫権さまのご聖明なるご判断で)
虎臣雄烈 周与程 (虎のように勇猛な周瑜と程普が)
破操烏林 顕章功名 (曹操を烏林に破って、輝かしい功名をあげた)
と、自国の栄えある歴史を誇らしげに歌っています。魏では、敗北した赤壁の戦いを後世に残すような歌は決して作ってはいません。汚点は無視する。それはどの国でも同じです。
呉の第七曲は、関羽を裏切者扱いにし、捕らえて勝利した歌です。
魏の第三曲は、呂布を生け捕りにした歌。しかし第二曲では、曹操は徐栄の兵に敗れたはずなのに勝ち戦のように讃えた歌になっています。
晋の第二曲は、孔明が司馬懿の威勢をおそれて死んでしまう歌です。このように、鼓吹曲は自国の都合のよいように作られています。己が王朝の価値を高めるのに、歴史を再構築するのは今も昔もかわりませんね。
蜀には残っていない
味方を奮い立たせるだけでなく、自国の宣伝効果も強い鼓吹曲ですが、魏も呉も晋もみな残されているのに、なぜか蜀のものだけは歴史から消えています。孔明が意図して作らせなかったのかもしれません。こういうパフォーマンスは苦手だったのかもしれませんね。三国志のミステリーのひとつです。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
きっと袁術軍にも鼓吹曲があったのでしょうが、残念ながら残ってはいません。袁術自らが作詞を担当していたかも・・・想像は膨らみます。呉の鼓吹曲を作詞していたのは韋昭という、当時一流であった文士です。ちなみに韋昭といえば、「呉書」の作成を命じられた人物でもあります。彼は袁術死後に生まれた人物で、直接袁術とは係わりがありませんが、おそらく袁術軍から吸収し、存続し続けた音楽隊の影響を強く受けたに違いありません。
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