孫権(そんけん)、字は仲謀は、孫堅(そんけん)が下邳の丞だった182年に誕生しています。
あごが角ばっていて口が大きく、目がいきいきと輝いており、一目見て父親は「高貴の相」だと思ったそうです。
呉書の主役は孫権だけに、出生にまつわる瑞祥譚はお約束でしょう。
11歳で父親は戦死。
一族は兄の孫策(そんさく)が再興します。
13歳で江東平定に随身
呉書によると、13歳にして、父や兄に匹敵する名声を得ていたとされています。
性格は明るく、思いやりがあり、決断力に富み、幕下に侠客志士を養っていたというのです。
現代で云うところの中学1年生ぐらいです。
凄すぎです。スーパーチャイルドです。
13歳の孫権が作戦会議で出す意見に、兄の孫策は目を見張り、自分以上だと評価したそうです。
そして自分の跡は孫権が継ぐと紹介していたのです。
呉書ではどうも孫策より孫権のほうが優れていると強調しているシーンが多く見られます。
本当にそうだったのでしょうか。
15歳で県長
そして15歳の若さで揚州呉郡陽羨県の県長になります。
15歳の県知事なんて今では信じられないですよね。
政治の何を知っているの?って感じです。
かなりのバックボーンがないとこの異例の出世はあり得ません。
飛ぶ鳥を落とす勢いの孫策の弟ということもありますが、相当な政治家に認められていないと成し得ない話です。
孫権は一体どれほどのコネクションを持っていたのでしょうか。
袁術との関係は?
そこで登場してくるのが、実質呉郡を支配していたスーパーエリート袁術(えんじゅつ)です。
孫権は袁術にかなり見込まれていたのではないでしょうか。
一般的に袁術は孫策を見て「孫策のような子供がいれば……」と呟いたと云われていますが、
実はそれは孫権を見て云っていたのではないでしょうか。
帝位を専称した袁術に認められていたというのは汚点ですから、
呉書ではあえて孫策に変えてしまったということはあり得る話です。
武力一辺倒の孫策よりも政治に長けた孫権の方が袁術の目には留まりそうです。
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部隊司令代行
そんな最強の後ろ盾とコネによって、孫権は呉郡太守、
朱治(父親の代からの生え抜きの武将)から考廉の資格を認定され、
揚州刺史、嚴象(献帝を擁する曹操派)からは茂才に推挙され、奉義校尉という部隊の司令長官を代行することになります。
199年、宿敵である黄祖を追いやったときには奉業校尉という任に就いていました。
17歳にして、盧江郡皖城を落とし、黄祖軍を打ち破る原動力となったのです。
18歳で孫家当主
200年に当主である孫策が死に、孫権が跡を継ぎました。18歳の若さです。
本来であれば、孫策の嫡男の孫紹が継ぐべきでしたが、呉書では孫紹は意気地がなく、
とても父の事業を受け継ぐ器量ではなかったとされています。
孫権の抜擢は正解だと云うのです。
陳寿は、江東に割拠する体制を築いた孫策の功績に対して、
子の孫紹が侯に封じられただけでは情理に欠けていると述べています。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
孫権が孫策を尊敬していないように映るのは、諡を長沙桓王としたことにもあります。
父親は帝の称号でも、兄は王どまりなのです。
なぜなのでしょうか。
私はそこに袁術が係わっていると感じざるを得ません。
孫策は袁術を裏切り独立しました。
孫権は袁術に恩義を感じていて、兄の行動に納得していなかったのではないでしょうか。
だとすれば孫権が袁術の娘を後宮に入れて保護し、袁術の息子を起用したことも頷けます。
呉書には到底綴れない孫権の感情です。
袁術の子孫が呉帝国の皇帝の正妻になるかもしれない機会が二度もあったことが、
さらにその推測に説得力をつけていると思われるのですが、みなさまはいかがでしょうか?
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