三国志でも屈指の名家である、汝南袁氏(じょなん・えんし)ですが、
どんな家でもいきなり、名門であるという事はなく、そこまでには、
幾多の光と影のヒストリーがあります。
そこで、今回のはじさんは、袁紹(えんしょう)、袁術(えんじゅつ)を生み出した
汝南袁家のヒストリーを追っていきたいと思います。
この記事の目次
汝南袁氏の祖は、袁安という人物
汝南袁氏の基礎を築いたのは、袁安(えんあん)という人物です。
袁氏は、袁安の祖父の袁良(えんりょう)が儒学者で、
見出されて、前漢の末に成武県(山東省)の令にまで昇進しました。
つまり、袁家は庶民ではなく、ある程度の地位に昇れる、
豪族の家柄であったという事になります。
大雪の日に餓死寸前で寝ていて、出世のチャンスを掴む袁安
袁安の父は、役人にならず、記録はありませんが、
袁安は、若いころから勉学に励んでいました。
そんな袁安の若い頃、彼の故郷が記録的な大雪に見舞われます。
それにより、作物は大ダメージを受け、その年は大凶作になりました。
餓死者も続出する大惨事の中、市中を巡回していた県令は、
大雪に埋もれたままの袁安の屋敷を発見します。
「もしや、餓死した人間がいるのでは・・」
県令が雪をかきわけて、家に入ると、
そこで袁安が絶食状態で寝ていました。
「どうして、街中に出て食糧を求めようとしなかった?」
県令が不思議に思って、尋ねると袁安は、
「市中は、わずかな食糧を奪い合う人であふれていましょう。
そこに加わり迷惑を掛けたくないのです」と答えます。
県令は、袁安の態度を賢者であると気に入り、考廉で推挙します。
こうして、思いがけず、袁安は役人になります。
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袁安、冤罪で捕まった人々を釈放し、帝の信頼を得る
袁安は、小さな県の令を歴任しますが、どこでも真面目に勤めて
実績を積み上げていきます。
そして、西暦71年には、明帝に反乱を起こして処断された、
楚王、劉英(りゅうえい)が除かれた直後の楚郡に太守として派遣されます。
そこで、袁安は、劉英に連座したとされている人々を調べあげ、
数百名という無実な人間がいる事を知り、これらを釈放しました。
通常ならば、皇帝に媚びるために、無実の人間でも処断して、
自分の忠誠をひけらかしそうですが、儒学者としての教育を受けた
袁安は公明正大だったのです。
それを聞いた、明帝は、時局や欲に流されない見事な態度であると
賞賛して、袁安を中央に呼び出します。
こうして、洛陽都知事である、河南尹(かなんいん)になった袁安は、
厳しくも、寛容な態度で洛陽を治め、むやみに刑罰に訴えなかったので、
乱れていた洛陽の人心は整然としたそうです。
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袁安、ついに三公に昇り詰める
袁安が河南尹である期間は10年に及びました。
西暦83年、袁安は九卿の一つである太僕(たいぼく)に昇進して、
高級官僚の仲間入りを果たします。
そして、次には、三公の司空、司徒を歴任したのです。
その後、88年、章帝が崩じて、幼い和帝が即位すると、
前漢同様に、外戚の竇氏(とうし)がのさばるようになります。
袁安は、しかし、竇氏に媚びず、それを弾劾するなどしたので、
竇氏に恨まれますが、清流派官僚のトップ袁安を殺すと、
返って反発が強まると考えた竇氏は、これを殺しませんでした。
やがて、袁安は病にかかり、朝廷の行く末を心配しながら病死します。
竇氏は打倒され、袁安は再評価される
竇氏は、袁家を冷遇したので、袁安の息子達は、しばらく不遇でした。
ところが、和帝(わてい)が成長して竇氏を誅殺すると、
竇氏に媚びなかった袁安が再評価され、息子達も引き立てを受けるようになります。
ここで、浮上してきたのが、袁京(えんけい)と袁敞(えんしょう)という
袁安の二人の息子達です。
両者とも、袁安から儒教道徳を教えこまれた清流派の官僚でした。
袁京の家系からは、大尉に上った袁湯(えんとう)が登場し、
弟の袁敞も司空に昇っています。
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