三国志では次世代の君主を選ぶ際、非常に苦労しています。
河北の覇者として、君臨した袁紹(えんしょう)は後継者を決めないまま亡くなってしまった事で、
袁紹の息子達が争う事になり、国力は衰退。
敵国である曹操に攻められて国は滅亡してしまいます。
一歩間違えれば国が滅亡してしまう程、難しい後継者を選び。
今回紹介するのは二宮の変(にきゅうのへん)と言われる呉の国で起きた
孫権(そんけん)の後継者を巡る事件を紹介したいと思います。
この記事の目次
【二宮の変】とは一体なんぞ
そもそも二宮の変(にきゅうのへん)とは一体何なのでしょうか。
二宮の変とは孫権の息子で、皇太子であった孫登(そんとう)の死後に起きた争いです
孫登は遺言で「異母兄弟である孫和(そんか)を次世代の皇太子にしてほしい」と
孫権に懇願します。
孫権も息子のいう事を聞き、孫和を次世代の太子に任命します。
しかし孫権は自分の四男である孫覇(そんは)を魯王(ろおう)に任命。
こうして皇太子と孫覇が次世代の孫家を巡って争い、
呉の群臣達も孫和派と孫覇派に分かれ争った事件です。
最終的にこの争いは喧嘩両成敗となり、太子であった孫和は廃嫡され、
魯王であった孫覇は死罪。
そして孫権の新たな後継者として七男の孫亮(そんりょう)が擁立される事で、
一件落着となります。
この二宮の変が解決するまでに多くの呉の重臣が命を落とし、
国力は大幅に衰退する事になった事件です。
二宮の変が起きた原因その1:一番下の子に国を継がせる為に行った?
孫権は六十歳を過ぎた頃に一人の男子を得ます。
この子どもの名は孫亮(そんりょう)。
孫権はこの子を非常に可愛がり、
この子に自分の後を継がせたいと考えたのではないでしょうか。
その為には太子を廃嫡しなければなりません。
しかし、廃嫡は後継者の素行が悪かったり、重大な事件(例えば謀反など)を
した場合のみできます。
孫和は特に素行が悪いわけではなく、また謀反を起こそうとしている事実もありません。
そこで孫権は孫和を廃嫡に追い込むため、孫覇に目を付けます。
彼を魯王に任命し、孫和に対抗するように仕向ければ、
孫和が孫覇と孫権の後継者を巡って争い始めるのではと考えたのではないでしょうか。
もし二人が争えば、喧嘩両成敗という形で孫和を廃嫡した後
魯王孫覇を死罪。
二人の後継者が亡くなれば、必然的に孫権が可愛がっていた
孫亮を次世代の皇太子とすることができると孫権が考えたのではないでしょうか。
その証左として、孫権は孫和と孫覇が争い始めると
孫和を後継者の位から降ろし、孫覇を死罪にします。
そして孫亮を自らの後継者とすることに成功しています。
二宮の変が起きた原因その2:気に食わない群臣を粛清させるために行った?
二宮の変は孫呉の家臣団を真っ二つに分けて、争いが行われました。
孫和派には、呉の丞相である陸遜(りくそん)を始め、諸葛格(しょかつかく)、
顧譚(こたん)、朱拠(しゅきょ)、張休などの呉の重鎮が味方します。
また孫覇派には、江東の名家である全琮(ぜんそう)、呂岱(りょたい)、
孫峻(そんしゅん)など貴族や名家が味方に付きます。
孫権はあまり厳しく諫言する者(張昭のような人物)はあまり好まない性格です。
その証左として、張昭が諫言を行った事に孫権が腹を立て、
大喧嘩を行った事があります。
さて話を元に戻しますが、孫和派の人々は陸遜を始め、
孫権を強く諫める人物が味方しております。
孫権は孫和を後継者としての地位から降ろすと、
自らを諫め続けてきた陸遜に腹を立て手紙で詰問。
陸遜は孫権に謂れのない詰問状に激怒し憤死してしまいます。
また孫覇を死罪にした際、
彼に味方した江東の名家出身の武将・全琮などの貴族を重職に付けます。
しかし全琮の死後、孫覇派で重役にいた貴族出身の武将を失脚させます。
孫権は強く諫言する武将や江東の貴族と言われる武将達を粛清。
呉の国を綺麗な状態にして、
孫呉の家を孫亮に継がせようとしたのではないでしょうか。
二宮の変が起きた原因その3:孫権の娘が黒幕?
孫権の娘である孫魯班(そんろはん)は、
仲が悪かった王夫人を重臣たちが皇后に擁立しようとしていると聞きます。
自分の母である歩夫人が皇后になれなかったのに、
いきなり王夫人が皇后に擁立される事に我慢できませんでした。
その為、孫権に孫和や王夫人らの悪口を言いまくります。
孫権は娘から知らされる悪口を鵜呑みにし、孫和を遠ざけます。
彼女は夫である全琮が孫覇に味方していた事もあり、
孫覇と敵対している孫和派の重臣達の悪口を孫権に流します。
この悪口のせいで、陸遜や張休らも孫権から遠ざけられることになります。
こうして孫和に味方していた重臣たちを除くことに成功。
しかし彼女は孫権が孫覇よりも孫亮を可愛がっている事を知ると、
あっさりと孫覇を捨て、孫亮の味方に付き彼が皇太子になれるように尽力します。
妹も邪魔になれば消す
孫亮が孫権の跡を継ぎ、皇帝になると妹の孫魯育(そんろいく)が
孫和の味方をしていた事もあり、姉である孫魯班に反抗的な態度を取り続けます。
魯班は妹と疎遠になり、ついに彼女も殺害してしまいます。
こうして自らの敵になりそうな女性たちを消し、孫家の権力を一手に握ります。
もし、孫権が孫魯育の母親が亡くなる前に皇后にしていれば、
二宮の変は起きず、孫登の息子であった孫和が皇太子となり、
孫家を継いでいたかもしれません。
三国志ライター黒田廉の独り言
孫権はいずれの理由にせよ、
二宮の変によって国力を大幅に減少させる原因を作った事で、
滅亡の遠因を作る事になります。
孫家はその後、国力を回復させる事無く、滅亡を迎える事になります。
「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃまたにゃ~。」
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