袁術の前をガン無視で通り過ぎた漢達が予想以上に多かったのでまとめてみた

2016年5月19日


 

袁術と孫策

 

三国志の群雄の中で、多くの人材に恵まれた人物と言えば誰でしょうか?

人間磁石と呼ばれた劉備?、才能さえあればオールOKの曹操

それも正しいですが、実は袁術(えんじゅつ)なのです。

歴史上、袁術陣営には、他の群雄が喉から手が出るほど欲しい人材が、

何人も、通りかかっていました。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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小覇王 孫策(そんさく)

孫策

 

言わずと知れた、呉の小覇王です。

父、孫堅(そんけん)が袁術の配下だった関係で、父の戦死後は、

袁術の配下として、一生懸命に働きます。

袁術の没落後には、江東で独立して、小覇王として、

三国の一角である呉の基礎を打ち立てます。

 

孫策

 

呉志では、袁術に愛想を尽かし独立したとされていますが、

事実は違い、袁術が死ぬ前まで関係は良好であった

というような話もあります。

 



美周郎 周瑜(しゅうゆ)

周瑜

 

赤壁の戦いの事実上の功労者の周瑜(しゅうゆ)も、孫策と義兄弟の契りを結んだ際に、

袁術のスカウトを受けていますが、周瑜は丁重に断っています・・

やっぱ、孫策(そんさく)のほうがいいんだってさ!!

 

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剛毅な山師 魯粛(ろしゅく)

魯粛と袁術

 

 

周瑜と非常に仲が良く、その縁で袁術にスカウトされています。

こちらは、史書によると、一次的ではありますが、

袁術に仕えて、彼の没後に、呉に移動したと取れる節があります。

演義では優柔不断ですが、正史では、関羽を言い負かして、

領土を取りかえすなど勇気のある剛毅な人物です。

 

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光武帝に連なるプリンス、劉曄(りゅうよう)

陳宮

 

劉曄は、魯粛の親友で、また、袁術が任命した盧江太守の劉勲

兵を預けたり孫策との戦いでアドバイスしたりしているので、

客将として袁術に仕えていた節があります。

 

山賊の鄭宝が劉曄を祀り上げて利用しようとしても、

宴会で騙しこれを斬殺して兵を吸収するほど、胆力があります。

 

袁術が長生きしていないので、彼は、孫策が劉勲を破って、

盧江を吸収すると、曹操の人材募集に応じて、蒋、胡質と共に、

魏に仕えてしまいます。

 

胡質は、征東将軍、楊陵亭侯、劉曄は大鴻臚で、東亭侯、

蒋済は、魏王朝で大尉、領軍将軍、昌領亭侯、といずれも、

魏の重臣に登る程の才能を示しました。

 

惜しい、袁術、もう少し長生きしていれば・・

 

袁術に仕えるのを頑なに拒否、何夔(かき)

袁家ヒストリー02 袁安

 

何夔は揚州の出身ですが、どういうわけか袁術が大嫌いでした。

袁家の縁者である事からスカウトしても拒否、197年に、

袁術が、大将軍橋蕤と共に、何夔が立て籠る城を脅迫しても、

再び拒否します。

最後には、曹操に仕えて、家臣の最高の爵位である列侯に昇進します。

袁術のどこが、そんなに嫌だったか分かりません・・

 

袁術にも曹操にも尊重された袁渙(えんかん)

彭越

 

 

袁渙(えんかん)は、謹厳率直な性格で、人を人とも思わないような

袁術にすら尊敬された武将です。

しかし、袁術が呂布(りょふ)に敗れた時、袁渙は捕虜になります。

さらに呂布が曹操に滅ぼされると、他の諸将が土下座して、

曹操を迎えるのに、袁渙は卑屈にならず、対等な口を聴き、

曹操に尊敬されます。

袁術軍に絶望的に不足している内政官僚であり、

諫義大夫兼丞相軍祭酒・郎中令兼行御史大夫事という要職を歴任します。

惜しい、、袁術が呂布に負けなければ、袁渙を失わなかったのに・・

 

数年頑張っても劉繇に勝てなかった恵衢(けいく)

基礎 孔明の後継者姜維03 魏延

 

袁術が勝手に任命した揚州刺史ですが、孫賁孫静

と共同して、曲阿の劉繇を攻撃しますが数年掛けても歯が立ちません。

これを受けて、袁術は孫策を送り込み、これが孫策が江東に地盤を持つ

契機と言う事になります。

 

なんでしょう、この位の無能加減が、袁術の配下として安心します。

 

太守にするんじゃなかった・・九江太守、陳紀(ちんき)

趙達

 

元々、袁術は、孫策を九江太守にしようとしていましたが、

何故か、陳紀を太守にしてしまいます。

後に、袁術は、太守にするんじゃなかったと言ったそうなので、

それなりの手柄しかないでしょう。

 

太守になる前に病死 鄭泰(ていたい)・・

陶謙

 

何進(かしん)に招聘された特に、計略に優れていたとされる武将。

董卓(とうたく)の危険性に気づいて、ありとあらゆる計略を駆使して、

これを除こうとするが果たせず、李傕、郭汜が長安に入城すると

袁術の下に逃れて配下になります。

 

袁術が、鄭泰を楊州刺史に任命し、そこに赴任する途中病死

おまけに弟の鄭渾(ていこん)は袁術は長くないと見切りをつけ、

袁術が丁重に迎えたのに仕えるのを拒否して、曹操の下へ・・

 

脅迫しては、拒否され、丁重に迎えては去られ、

もう袁術、何がなんだか・・

 

息子を人質にされても袁術には仕えない 陳珪と陳登親子

陳登

 

袁術は、陳珪が自分同様に名門なので、楊州を支配すると、

これを配下に加えようと、文書で招聘するが、陳珪は拒否。

息子陳応を人質にされても拒否!

陳珪と陳登親子は、劉備を徐州から追い出した、

呂布(りょふ)に心ならずも仕えますが気持ちは曹操にありました。

呂布が袁術と同盟を結ぼうとするとこれを破談させています。

 

さらに婚姻を破談された、袁術が激怒して呂布を攻めると、

袁術の配下の、賊上がりの楊奉と韓暹を扇動して、

寝返らせ袁術軍を壊滅させます。

 

息子の陳登は、曹操に南の事は任せたと言われる程の人物、、

あーあ、この親子の一人でも袁術に仕えていたら・・・

 

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あの天才軍師の叔父、諸葛玄(しょかつ・げん)

諸葛一族

 

諸葛玄は、あの天才軍師の諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)の叔父です。

彼は、袁術の独自の命令で、豫章(よしょう)太守とされ、律儀に任地に赴きます。

しかし、後漢朝廷は、朱皓(しゅこう)を豫章の太守に任命して、

二人は任地でブッキングします。

ここでも、律儀な諸葛玄は、争わず、旧知の劉表を頼り襄陽に去ります。

この時の一行には、少年孔明も含まれているので、袁術が諸葛玄を

太守にしないで、手元に置いておけば、孔明は袁術の配下になった・・

という可能性も、百万が一、否定できないのです。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

以上のように、袁術には人材がいないのではなく、

絶えず、目の前を通り過ぎているのですが、何故か袁術が嫌いだったり、

登用しても役に立たなかったり、袁術の死後、活躍したりと、

あまりにも、武将運が無さ過ぎるのです。

 

本日も、三国志の話題をご馳走様でした。

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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