何進(かしん)は宦官討滅作戦に失敗して、殺されてしまいます。しかし彼の孫は生き残り、ある人の養子となっているのを知っていましたか。魏の基礎を作った英雄・曹操(そうそう)の養子となり、彼の息子達と共に育ちます。さて曹操の養子となった人物の名は何晏(かあん)と言います。
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曹操の養子として引き取られる
何晏の母親は曹操が司空(しくう)となった時に、側室として引き取られます。この時何晏は、曹操の息子達や曹操の養子となっていた元呂布の武将である秦宜祿(しんぎろく)の息子秦朗(しんろう)と共に教育されます。秦朗は控えめな性格であったことからあまり目立つことはせず、おとなしく生活していきます。しかし何晏は秦朗のように控えることはせず、曹丕(そうひ)や曹植(そうしょく)達と同じような行動をしてのびのびと育っていきます。
曹操の娘を妻にする
何晏はただ目立っていただけでなく、しっかりと学問に励み、その才能を開花させていきます。曹操は何晏の才能を認め、自分の娘である金郷公主(きんきょうこうしゅ)を娶ります。こうして曹家一門に名を連ねることになります。
曹家一門に名をつられるが…
何晏は曹操の娘を妻にする幸運を掴みますが、曹操の死後パッとしない人生を過ごします。曹操の跡を継いだ曹丕(そうひ)は何晏の事をあまり好きではありませんでした。その理由は、何晏が青年期の時に自分達と同じような振る舞いを周りにしていたことが気に食わなかった事が原因です。そして曹丕が皇帝となった時、何晏を用いることをせず、活躍することはありませんでした。また曹丕の死後、曹叡(そうえい)の代に代わっても彼の待遇に変化が起きることはありませんでした。
政治で活躍できないなら…
何晏は政治の場で活躍できないなら、文学の世界で活躍しようと考えます。元々文学の才能には恵まれており、「論語集解(ろんごしつかい」や「老子道徳論(ろうしどうとくろん)」などを手掛けます。また哲学にも凝り、この方面でも活躍しております。この何晏の思想が後世にまで残り、「詩仙」と言われることになる李白も影響を受けております。こうして哲学と文学に凝っていた彼にもついにチャンスが巡ってきます。
曹爽の側近となる
何晏は曹叡がなくなると幼い皇帝である曹芳(そうほう)が皇帝に就任します。前皇帝であった曹叡は司馬懿(しばい)と曹爽(そうそう)に幼い皇帝を補佐するようにと遺言を残します。こうして司馬懿と曹爽の二人が幼い皇帝を補佐する体制が出来上がります。何晏は曹爽に近づき、色々と政策面などの助言を行います。曹爽は彼の進言が適切であったことから、彼を取り立てて官位を与えます。こうして何晏はついに政権の中心に携わることになります。
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