「赤壁の戦い」や「官渡の戦い」など多くの兵士や将校、将軍達が倒れた末に、
勝利を重ねている戦いが数多くあります。
このように激戦が繰り広げられていた戦いですが、
今回はちょっと変わった戦いをご紹介します。
この記事の目次
赤壁の敗北
曹操は官渡の戦いで勝利したことで、天下の半分を手に入れます。
彼はその後、一気に天下統一を行うため軍を南下させ、荊州を手に入れます。
そして荊州を手に入れた曹操は、天下最期の最大勢力である呉へ侵攻します。
呉は劉備と手を結び、赤壁の地で曹操軍を完膚なきまでに叩き、大勝利を得ます。
曹操は赤壁で大敗北を喫すると、北へ退却します。
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関中討伐戦
その後彼は水軍の強化を図ると共に、
雍州・涼州で独立している馬超(ばちょう)や韓遂(かんすい)らの独立勢力討伐へ向かいます。
曹操は初戦こそ馬超軍の騎馬隊の猛攻の前に苦戦を強いられる事になりますが、
その後は賈詡(かく)の謀略を用いて、独立勢力の連合軍を内部崩壊させ、
勝利を得ます。
こうして関中の独立勢力の討伐に成功した彼は、
次なる目標である漢中侵攻への準備を行います。
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なんでもない土地であった漢中が注目される
曹操は関中を平定した後、政治・軍事共に忙しい身でありながら、
漢中侵攻への軍備を着々と進め、関中の反乱から三年後ついに曹操自ら軍を率いて、
漢中へ軍を進めます。
漢中は五斗米道(ごとべいどう)と言われる宗教団体が治めている土地です。
しかし武装して反乱を起こそうという気概はなく、今までおとなしくしておりましたが、
劉備が劉璋(りゅうしょう)を追い払い益州を領有したことが原因で、
漢中の地がにわかに重要な地として注目されます。
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漢中がなぜ重要なの?
漢中は益州の玄関口です。
この地から雍州・涼州に進出することが可能で、長安へも行くことができます。
もしこの地を劉備に取られてしまうと、
雍州や涼州の奥地までしっかりとした守備を施さなければなりません。
だが曹操軍がこの地をとれば、益州の玄関口を押さえることになり、
漢中から南下すれば益州へ侵入することも可能です。
また漢中をしっかり押さえておけば、雍州・涼州へ軍を回さなくて済みます。
このような理由から曹操は漢中を領地とすべく出陣します。
断崖絶壁を超えていく
曹操は漢中へ出陣します。
しかし中原のようにスムーズに軍ができるような場所ではありませんでした。
断崖絶壁のようなところに橋がかけられており、馬で渡ると危ないので、
馬を降りてわたっていきます。
もちろん輸送も非常に手間取りながら、何とか漢中の地へたどり着きます。
【不思議な戦い】陽平関の戦い
曹操軍は何とか漢中を守る陽平関へたどり着き、さっそく攻撃を開始。
しかし陽平関を守る張魯(ちょうろ)の弟張衛(ちょうえい)が、
しっかりと防備を固めていた為、なかなか陥落させることができません。
また運搬してきた兵糧が底をつき始めていた為、曹操は退却を決意。
この時曹操は親衛隊長である許楮(きょちょ)と夏侯惇(かこうとん)へ
山上に陣取っている味方の軍勢を引き上げさせてくるように命じます。
二人は少ない兵士を伴って、山上へ上がっていきます。
【不思議な戦い】偶然夜襲?が成功
許楮と夏侯惇は山上に陣取っている味方の軍勢を集めると下山を開始。
陽平関を守っていた張衛は曹操が撤退するとの報告を受けると
警戒を解き、夜中も曹操軍が撤退していた為、夜襲を警戒することはありませんでした。
張衛は陣へ突如数千頭の鹿達がなだれ込んできた事で、
軍営は大混乱に陥ってしまいます。
ちょうどこの時、道に迷っていた夏侯惇と許楮率いる軍勢が
張衛の陣へ迷い込んでしまいます。
二人は後続している味方を呼ぶため、陣太鼓を打ち鳴らします。
陣太鼓を聞いた張衛の陣は、収拾不可能なほど混乱してしまいます。
この騒ぎを聞いた曹操軍は陽平関に戻って攻撃を仕掛けます。
するとあっけなく陽平関を守っていた兵士達が降伏したため
大した損害もなく陽平関を手に入れます。
その後漢中も五斗米道の当主であった張魯が逃亡していた為、
激しい抵抗を受けることなく領土とします。
三国志ライター黒田廉の独り言
官渡の戦いや夷陵の戦いでは多くの死傷者を出して勝利しています。
しかし陽平関では、両軍ともに大した死傷者を出すこともなくすんなりと
終了しております。
まさに運が曹操に味方したとしか思えない戦いであったと思います。
「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃあまたにゃ~」
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