白波賊とはもともとは黄巾賊の一派です。黄巾賊が各地で官軍によって一掃されて後も河東郡で独力勢力を築いていました。頭目のひとりである楊奉(ようほう)は、長安にあって朝廷を牛耳る李傕(りかく)に降り、その配下となります。楊奉は勇猛果敢な武将として活躍しており、あの曹操(そうそう)をして楊奉の軍は精鋭であると脅威を感じさせています。
さらに楊奉の配下には猛将・徐晃(じょこう)がいました。白波賊の頭目は他に、韓暹、李楽、胡才がいて、楊奉が献帝を守りながら長安から洛陽へ逃げ延びていく際に協力しています。
献帝の洛陽帰還の立役者
楊奉なくして献帝の洛陽帰還はありえなかったでしょう。追撃してくる李傕や郭汜の兵を迎え討ったのが楊奉の兵たちです。ただし多勢に無勢、楊奉は李傕の追撃に一度は敗れています。ここで楊奉は古巣である白波賊に救援を求めるのです。韓暹や李楽、胡才が献帝の保護に加わることで、楊奉は李傕と和睦を結ぶことができ、洛陽に帰還することに成功しました。戦闘並びに外交と、まさに献帝の側近として尽力し、結果を出します。
董承との対立
洛陽に着くと、楊奉は董承や張楊らと主権争いを繰り返します。このときの楊奉の官位は車騎将軍です。まさに頼れる大黒柱といっても過言ではありません。しかし董承、ならびに張楊、そして董昭の策謀によって、洛陽に曹操の兵を招き入れることに成功すると、不意を突かれた楊奉は曹操の軍に打ち破られます。楊奉は韓暹らを率いて寿春の袁術を頼って落ち延びていくのです。徐晃はこのとき曹操に降っています。もし、楊奉が政権争いで董承に遅れをとっていなければ曹操の介入を防ぐことができたことでしょう。そしてそのまま袁術と組んで献帝を盛り立てていたかもしれません。
袁術配下の武将としての楊奉
徐州支配を狙う袁術は、当初は呂布との同盟を考えていましたが、その使者を呂布に斬られたことから方針を一転し、武力をもって徐州を奪うことを実行に移します。総大将に張勲をつけ、橋蕤ら古参の将とともに楊奉や韓暹といった新参者も将軍に任命しました。軍勢は20万を超えていたと云われています。呂布勢力下にあった名士の陳珪が一計を案じて、これを見事に成功させます。それは新参の楊奉、韓暹を袁術から離反させるというものでした。かなりの好条件が用意されていたはずです。餌はおもに兵糧だったと云われています。さらに袁術が帝位を専称したことも楊奉の離反への動きに拍車をかけたのだのではないでしょうか。献帝を救い、信頼されることで、楊奉の心は漢帝国に強く傾いていたのかもしれません。
楊奉の離反により袁術軍は瓦解
楊奉、韓暹の裏切りによって袁術軍の戦陣はずたずたになります。名将の張勲であっても態勢を立て直すことができず、呂布軍に攻め立てられて崩れました。離反した韓暹はこのとき、袁術軍の将軍を数名斬っているそうです。もし楊奉、韓暹が離反しなければ袁術は呂布を破って徐州一帯を手に入れていたこでしょう。そうなると曹操もおいそれとは袁術を倒せなかったはずです。なぜ新参者の楊奉と韓暹をそこまで信頼してしまったのか、袁術の内心はうかがい知ることはできませんが、恨むべき曹操を追い落とすことで両者の目標は一致していたのでしょう。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
献帝の身を守った救国の英雄でもある楊奉。彼が袁術を見限ることをしなければ歴史は大きく変わっていたかもしれません。ちなみに楊奉はその後、呂布に徐州全域を奪われた後の劉備によって謀殺されています。楊奉の兵を奪うことが劉備の目的だったようです。その死は、かつての主君であった袁術よりも早いものでした。もし袁術が呂布の勢力を吸収していたら、官渡の戦いは「袁紹VS袁術」になっていたかもしれませんね。
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