楽進(がくしん)は字を文謙といいます。
体つきは小柄でしたが、肝っ玉の激しさによって曹操に従いました。
濮陽における呂布攻撃、雍丘における張超攻撃などに参加し、
すべて一番乗りとして戦功を立てたのです。
楽進(がくしん)の功績
また、官渡の戦いにおける袁紹攻撃に参加し、
袁紹方の将軍淳于瓊を斬り、南皮における袁譚攻撃では、一番乗りとして袁譚の東門に突入しました。
そこで、曹操は王に上奏文をたてまつり、楽進および于禁・張遼をたたえて述べました。
「武力が優れているうえに、計略は行き届き、忠義にして純一なる性質をもち、
固い操を保持しております。戦闘攻撃に臨めば、常に指揮を執り、力をふるって、
堅陣を突き破り、堅固であっても陥落させないことはなく、自身枹と太鼓をとり、手はうむことをしりません。
また別軍として征討に派遣されると、軍隊を統率し、兵士たちをかわいがっては和を基本とし、
命令をかしこみ違反することなく、敵にぶつかって決断を下す場合も失敗はございません。
功績を調べはたらきを記し、それぞれ顕彰され恩寵を下さるべきと存じます。」
ちょっと長いですが、まあ要約すれば、「この三人は優秀だから褒美を授けてやってください」ってことですね。
その結果、三人は正式な将軍に取り立てられました。
合肥の戦い(楽進の場合)
この戦いにおいて、楽進は襄陽に駐屯し、関羽(かんう)・蘇非(そひ)
らを攻撃して彼らを敗走させました。
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于禁の経歴
于禁は字を文則といいます。
黄巾の乱が起きると、鮑信は兵隊を呼び集めたので、于禁は彼に付き従いました。
そして。次に于禁はその仲間とともに曹操のもとに出頭し、将軍王朗に所属しました。
王朗は彼を評価し、于禁の才能は大将軍を任せられると推薦しました。
そこで、曹操は引見して彼と話をし、徐州に行かせました。
于禁は徐州を陥落させたため、その才能は認められました。
濮陽における呂布討伐では、于禁は別軍として城の南にある呂布の二陣営を打ち破りました。
また、黄巾の劉辟・黄邵らの征討に参加し、黄邵らが夜襲をかけてきたときに、
直属の兵を指揮して彼らを撃破し黄邵らを斬り、その軍勢を降伏させました。
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于禁のすごさ
そして、ここがすごいところなのですが、一度は降伏した張繍らがふたたび反乱を起こすと、
曹操は彼と戦って形勢不利で軍は敗北を喫し引き返しました。
このとき軍は混乱し、それぞれ間道を通って曹操を探しました。
しかし、于禁だけは部下数百人を指揮し、戦いながら引き揚げました。
その部下の中に、死傷者はあったけども、離散する者はいませんでした。
そして、敵の追撃が次第に緩くなると、于禁はおもむろに隊列を整え、太鼓を鳴らして帰還しました。
すると、曹操のもとに行き着かぬうちに、道中で傷を受けて逃げる十余人の兵士に出逢いました。
于禁がその理由を尋ねると、彼らは「青州の兵に略奪を受けました」と言いました。
そこで、于禁は腹を立てて、青州の兵を討伐し、彼らの罪を責め立てました。
青州の兵は慌てふためいて曹操のもとに逃げ訴え出ました。
于禁は到着するとまず陣営を設け、すぐに曹操に謁見しませんでした。
ある人が于禁に向かって言いました。
「青州の兵は既に君を訴えておりますぞ。
すぐに公のもとにいってこのことをはっきりさせなければなりません」
于禁は言いました、
「今、賊軍が背後にいる。追撃が来るのも間もないだろう。
まず備えを立てなければ、どうやって敵に対処するのだ。
それに公は聡明であられる。でたらめの訴えが何の役に立つ。」
そして、塹壕を掘り陣営を施き終わると、やっと入って謁見し、詳しくその実情を説明しました。
曹操は喜び于禁に向かって言いました。
「イク水における苦難は、わしにとってそれこそ危急の状態だった。
将軍は混乱にありながらよく乱れず、暴虐を討ち取りとりでを固めた。
動かすべからざる節義を備えていると言ってよかろう。
古代の名称であっても、これ以上であろうか」
そして、ふたたび曹操に付き従って張繍を穣に攻撃し、呂布を下ヒで捕らえました。
魏の五虎将の名将軍ぶり
五虎将はみな名将であり、曹操が征伐するごとに、皆代わる代わる起用され、
進撃の時は軍の先鋒となり、帰還のときはしんがりとなりました。
しかも于禁の軍を保持する態度は厳格できっちりしており、
賊の財物を手に入れても個人の懐に入れることはありませんでした。
このため、賞賜は特に手厚くありました。
しかしながら法律で下を統御したのて、あまり兵士や民衆の心を掴めませんでした。
貫けなかった意志
樊における戦いで、于禁は関羽の猛攻に遭い、とうとう関羽に降伏して捕虜になってしまいました。
しかし、その関羽を孫権がとらえ、その軍勢を捕虜にしたので、于禁は今度は呉に住むこととなりました。
曹丕が帝位につくと、孫権は藩国の礼を取り、于禁を帰国させました。
曹丕が于禁を引見すると、髭も髪も真っ白で、顔形はげっそりやつれ、
涙を流し頭を地に打ち付けて辞儀をしました。
そして、呉に使者として派遣するつもりで。
先に曹操の稜に参拝させました。曹丕はあらかじめ、御陵の建物に、関羽が戦いに勝ち、
于禁が降伏しているありさまを絵に描かせておきました。
于禁は見ると、面目なさと腹立ちのため病気にかかり逝去しました。
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三国志ライター秋斗のつぶやき
というわけで、楽進と于禁についてお伝えしました。
個人的には、于禁の波乱に満ちた人生に衝撃を受けました。
そんなに大活躍したすごい人だったのに、曹丕は……。
こういうところが、曹丕の冷酷と言われるところですね。
于禁、もっと取り上げられてもいいんじゃないですかね。
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