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司馬炎が跡を継ぐ
司馬昭が亡くなると彼の長男である司馬炎が跡を継ぐことになります。彼は非常に優秀な人材で、彼の出身地から彼を越える人材が一人も出なかったそうです。こうして司馬昭の優秀な嫡男である司馬炎は、司馬昭の家臣であった賈充(かじゅう)・裴秀(はいしゅう)・羊祜(ようこ)・荀勗(じゅんきょく)・陳騫(ちんけん)達と魏王朝に幕を下ろす計画を考えます。
ついに魏王朝が終わりを告げる
司馬炎は彼らと何回も話し合いを行い魏王朝から皇帝の位を譲ってもらう計画を立てて、実行に移します。司馬炎は曹奐の元へ行き「陛下。魏の王朝の時代は終わりました。私に皇帝の位を譲っていただけないでしょうか。」と尋ねます。曹奐は彼の言葉に戸惑いますが、司馬炎の言う事を聞かなければ、自らの命も危ないのではないかと考え、彼に皇帝の位を譲る事を決意します。こうして魏王朝は終わりを告げ、司馬炎が皇帝の位に就任。魏王朝は曹丕が皇帝の位になってから、40年ほどで終わりを迎えます。司馬炎は皇帝になると国号を「晋」と変えて、天下統一へ向けて進んでいく事になります。
曹魏が滅んだ理由その1:司馬家に対して対策を講じなかった
三国一の国力と国土を有していた魏の国ですが、なぜ40年ほどで滅亡しなくてはならなかったのでしょうか。私は魏が滅亡した原因は複数あると考え、色々と調べてみました。その原因の一つは司馬家に対して対策を講じなかった魏の2代目皇帝曹叡(そうえい)に原因があると考えます。司馬懿は対蜀戦で非常に活躍した人物ですが、曹叡は彼に対して警戒心を持っていたのにも関わらず、何の対策を講じず亡くなってしまいます。司馬懿に対して対策を講じなかった原因は記されていない為不明ですが、彼が亡くなる間際に、遺言で司馬懿に何らかの制約を設ける事を決めていれば、曹爽との政争も無く魏の国はもう少し長く続いたのではないのでしょうか。
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曹魏が滅んだ理由その2:曹丕・曹叡が若くして亡くなった事
曹魏が滅んだ理由その2は曹丕・曹叡の寿命が短かった事でしょう。彼らにこの点は罪があるわけではありませんが、彼らがもう10年ずつ長生きする事が出来れば、司馬家に並ぶ傑物が曹氏一族に現れる可能性があったかもしれません。もし傑物が現れれば、司馬家にいいように政権を握られる事も無かったかもしれません。
曹魏が滅んだ理由その3:皇族に力を持たせなかった
曹魏が滅んだ3つめの理由として、曹氏一族に力を持たせなかったことが原因と考えられます。曹丕は漢王朝が腐敗した原因は皇族や外戚(がいせき)が力を持った事で、王朝の政権を握り、好き放題政治を行った事が原因であると考えます。曹丕はそのため皇族に大きな領地を与えず、皇族間の連絡を取らせず、何度も領地替えを行う事で、皇族の領内に力を蓄えさせない政策を取っていきます。この政策によって外戚が力を持つ事はありませんでしたが、皇帝に何かあった時に駆けつけてくれる味方もいませんでした。曹丕の弟である曹植はこうした危険性を理解した人物で、曹丕に皇族にもう少し力を与えるように進言しまが、理解してもらえませんでした。また曹丕が亡くなった後も彼は、曹叡に幾度も手紙を送って皇族間の連絡だけでも取らせてほしいと嘆願しますが、この嘆願も通る事はありませんでした。こうして曹植は亡くなってしまうのですが、彼の進言を採用して、皇族に力を与えて、皇族の間で連絡の取り合いを行い、皇帝に何かあればすぐに駆け付ける事ができるようにしていれば、司馬家に圧力をかける事も出来き、そう簡単に滅びる事は無かったと思います。
三国志ライター黒田廉の独り言
主な要因としては上記3つが曹魏の滅んだ理由であると考えますが、曹丕・曹叡が長生きした場合はどうなっていたのでしょうか。もし彼ら2代が長く生きる事が出来た場合、三国からは戦が亡くなったのではないでしょうか。曹丕は内政を重視した政策を行っていた為、彼が生きている間は孔明も北伐が行えませんでした。その為曹丕が長生きをした場合、魏の国力は蜀・呉が攻め込めないほど富むことになり、2国は魏に攻めこむことができずに戦は亡くなるのではないかと思います。また曹叡が長く生きた場合は、天下統一が早まったかもしれません。彼は国が裕福になるために行った公共事業である土木工事が成功を治め、国が裕福になり、時期を見計らって蜀・呉どちらかの国に総攻撃をかけていたのではないのでしょうか。このように歴史にもしもは禁句ですが、色々と国の滅亡理由を考えて、違った道を歩んだ場合の事を考えてみると中々面白いと思いませんか。
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