武将達の華々しい命がけの舞台、それが戦場です。
しかし、武勇に優れた武将達が剣と矛を交わしている間にも経済官僚達はこの戦争で失われる人的、物的費用を計算し、戦線を維持できるようにソロバンをパチパチ言わせ、財源を生み出さないといけませんでした。
そこで、今回は戦争の舞台裏、財源確保の苦労を日中双方、諸葛亮孔明と織田信長に焦点を当てて解説してみましょう。
この記事の目次
あれやこれやの財源探し 諸葛亮の戦争費用捻出法
魏を遥かに下回る国力しかないにも関わらず、攻撃は最大の防御とばかり西暦228年から234年という7年間に五度の北伐を繰り返した諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)もちろん、戦争は冷酷な程にソロバンの世界なので根性論では兵士は一歩も動いてはくれませんでした。
幸いに、蜀には銅のような貴金属、塩のような人体に必要不可欠な食品、さらに絹織物の産業も発展していて、外貨を獲得できそうな要素は揃っていました。褒美として土地を割けない孔明は、よく絹織物を部下に与えています。土地なら一度与えれば失態が無い限りは取り返せませんが、絹織物なら、また織ればいいので国家としては割がよい褒美でした。
実際に蜀が魏の鄧艾(とうがい)に降伏した時、倉には山のような絹織物が積まれて出荷を待っていたという事です。孔明は、これにプラス、鉄と塩の専売制を敷く事で国税を確保しほとんど毎年のように行っていた北伐に備えたのです。
孔明の南蛮征伐は東南シルクロードの安定にあった!
しかし、それでも北伐の継続には不安があった孔明は前漢の冒険家、張鷹(ちょうけん)も旅した東南シルクロードの安定的な利用を目指します。東南シルクロードの先には、ベトナム、ラオス、ミャンマー、さらに奥には身毒(しんどく)と呼ばれたインドがありました。
三国志とほぼ同時代に栄えた、北インドのクシャーナ朝と南インドのサータヴァーハナ朝は、ローマ帝国に特産の香料などを輸出して巨万の富を得ていたようです。
孔明はここに目をつけ、蜀の特産品である絹織物を交易品として扱い北伐の軍資金を稼ごうと考え、不安定な南蛮を武力で支配下において安全な交易を実現しようとしたのでしょう。
当時のローマ帝国は絹を珍重し、その栽培法を執拗に知りたがりました。蜀がインドにもたらした絹織物はきっと高値で売れた事でしょう。三国志の枠内で見ると蜀は辺境ですが、世界的に見ると、当時の文明国インドにもローマにも魏よりも遥かに近い事が分ります。孔明は、この利点を知っていて充分に活用したのです。
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それでも苦しかった蜀の統制経済で孔明の資産は・・
しかし、それでも益州一国の利益は、マクロでは小さく、その多くは北伐の戦費に吸い上げられ、民衆は豊かであるとは言い難いでしょう。生活物資である鉄も塩も高値で止められ、不満もあった筈です。
そこで孔明は、蜀の人民が経済的な不満を爆発させないように、一番目立つ自身が、どこまでも清廉潔白であろうと努力しました。
実際に孔明の死後の遺産は、桑800株、薄田15頃に過ぎません。15頃って、27キロメートル四方で、それで諸葛家の家人や、使用人がご飯を食べるのに充分だと言っているのですから、一国の宰相の土地としては、大して広いとも言えません。
これは孔明が清廉潔白という事もあるでしょうが、自分から範を示す事で、後継者達にも蓄財を戒めさせたのでしょう。
戦国の風雲児、織田信長の戦争費用捻出
戦国時代の中期に尾張国に生まれた織田信長も、経済への着眼点の良さが天下統一の為の莫大な資金獲得に繋がりました。元々、尾張や美濃は、日本の東西の中継地点で商業が発達し、織田氏も港からあがる交易の利で富を蓄えていました。
そのような土地で生まれ育った織田信長は、個人の武勇ではなく、圧倒的な経済力こそが天下を制すると確信します。
信長は銭の力に着目し、愛刀の鍔には、表に六枚、裏に八枚の中国の銅銭、永楽銭の文様を入れていますし、天下布武の印を使いはじめた1568年頃からは、織田家の旗にも永楽銭をデザインしました。今でいえば、500円とか、100円を旗印にするようなもので信長の経済への造詣の深さと新しい奇抜なデザインを好む性格が、同居した旗印になっています。
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500年続く既得権益「座」を解体して自由市場にする
1568年、信長が尾張と美濃を領有し、足利将軍を擁立して他の戦国大名と一線を画し始めた頃、日本の商業は座と呼ばれる職業組合に事実上独占されていました。座は古くは平安時代から続く同業者のギルドで、寺社や貴族、大名に金を払う事で税金などを免除してもらい、特権を与えられ経済を支配しました。
彼等は商業の利益を確保する為に座の仲間で商品の値を示し合わせて決め、自分達に断りなく商売を始める人間や、価格の取り決めを守らない業者を武力で排斥して市場を独占したのです。
信長は、これは自由な経済の発展を妨げると判断して座を廃止して、さらに座の特権も取り上げ、誰でも商売を行う者は自分の領地では無税で行えるとしました、これが楽市・楽座です。
これにより商品価格は自由競争になり、品物の値は下がり、商品は沢山売れて経済は活性化しました。信長が座から税金を取るより何百倍もの収益が領地に落ちるようになったのです。
関所を廃止して関税をフリーにする
さらに信長は、群雄割拠の当時、当たり前に存在した関所を領内から完全に撤廃しました。
それまで関所は、領内を通行する人間の出入りを管理し、通行税を取る商売人には嫌な場所でした。それが撤廃されたので、商人はどうせ商売するなら関所がない美濃や尾張でやろうと、全国から集中して押し寄せてきたのです。これにより織田家以外の大名の領地では商業が衰退し、逆に織田家では、経済力が増強されたので一石二鳥でした。
粗悪な銭を回収して市場に良銭を流通させた
戦国時代は、統一政権がなく、銭も民間が造った私鋳銭が多くありました。それは極端に銅の含有量が低い物が多く、経済に混乱を来たしていました。信長は、そのような鐚(ビタ)銭を市場から回収して良銭が出回るようにします。これは信長の時代だけで終わってはいませんが、それにより銭の流通はスムーズになり経済活動は促進されたのです。
圧倒的な経済力を背景に実現した専門の軍隊
戦国時代、兵士は全て半農半兵という状態でした。ですので農繁期には出兵が出来ず、長期の遠征も出来なかったのです。しかし、信長は圧倒的な経済力で専門の軍隊を作り出します。
田を耕さず、織田家からの給料だけで働く万単位の軍隊です。この専門の軍隊は、365日、農業に関係なく稼働し続け、またお金さえあれば幾らでも補充できたので、信長に圧倒的な武力をもたらす事になったのです。
信長はキリスト教の布教を認め、仏教の勢力を抑え、同時に、種子島銃などを大量に南蛮人の商人から買っていたので、鉄砲の保有率も高く、それが武田騎馬軍団を崩壊させる長篠(ながしの)の戦いに繋がっていきます。
茶の湯をステータスにして茶器を褒美にする
信長は禅に造詣が深く、そこから茶の湯にも、のめり込んでいきますが、そこで信長は、茶の湯のステータスを極限まで高くして許可制にしました。高名な茶人である千利休(せんのりきゅう)を使い、茶道具に目利きをさせたりしています。
利休が褒めた茶器は、数万両、数十万両という高値がつくようになり戦国大名が茶器所有を羨望するようになるのもこの頃です。信長は、こうして領土の代わりに戦功著しい武将には、茶会の開催を許し、名物茶器を与えて褒美にするようになります。
幾ら価値があるといっても、元は土くれの茶器です。領土や官位のように限りがあるものとは比較にならない程安上がりです。こうして信長は増え続ける戦功に上手く対処していたのです。孔明が戦功者に土地ではなく絹織物を与えたのと似た点がありますね。
三国志ライター kawausoの独り言
信長は、生涯、経済、経済だったようで安土城を築城すると、入場料を取り庶民にも見物させています。そうまでして、お金を集める所を見ると、派手に見える舞台裏では相当に金銭面では苦労があったのだろうと思います。生涯派手な信長と生涯清貧を貫いた孔明ではベクトルは逆ですが、お金に苦労し続けたという点では共通点も多いと言えるでしょう。
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