三国一の人材と国力を誇る、曹操(そうそう)が基礎を築いた魏王朝。そんな魏王朝のショッキングな刑罰がはじめての三国志の調査で発覚しました。
魏では刑罰を犯した人間はフンドシ一丁で叩かれていたというのです。禰衡(でいこう)が泣いて喜びそうな、このショッキングな記述は真実でしょうか?
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三国志の時代、人前で裸になるのはタブーだった。
三国志の時代、人前で裸になるのは、大変なタブーでした。そればかりか、ちょっと内腿が出るだけでも不快だとされました。
当時の座る姿勢は今でいう正座ですが、これも当時の衣装は、前が開いた衣服の左右をあわせて腰を帯で縛るだけだったので、胡坐をかくと着物の前がパックリ割れて、下着が「こんにちは」してしまうからでした。
それを防ぐには、膝を折って座り、股ぐらを見せない正座しか無かったのです。
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フンドシ一丁の姿で杖でぶたれかけた韓宣
韓宣 景然(かんせん・けいぜん)は冀州渤海郡の出身です。曹操に見出され軍謀掾(ぐんぼうえん)になったものの、才能は有能と無能の中間という中途半端なレベル。
それでも良く自分を抑えて、人を許す寛大な性格が認められ、曹丕が即位した頃までには、尚書郎まで上りました。ところが、職務の途中で罪を犯してしまい、魏の刑罰に従い、衣服を剥ぎ取られてフンドシ一丁になり、縛られた上に臀(でん:お尻)を丸だしにされてしまいます。
これは、禰衡大喜び!きっと飛んで行って脱ぎだすでしょう。
しかし、季節は真冬、寒いし杖でぶたれるしで、韓宣が怯えていると、そこに文帝、曹丕(そうひ)が通りかかります。
曹丕「一体何事だ?」
獄吏「ははっ!この韓宣めが、罪を犯したので杖刑を!」
曹丕「何?韓宣だと、韓宣景然か?」
獄吏「はい、その通りで御座います」
曹丕「よい、ワシが赦免する、韓宣は解き放て」
こうして曹丕に許された韓宣、縄を解かれるとフンドシ一丁で、ぴゅーっと逃げていきました。
どうして韓宣は曹丕に許されたのか?
では、どうして、韓宣は刑罰を受ける所を曹丕に許されたのでしょう。それはまだ、曹操が存命中、鄴(ぎょう)の都においての事です。当時の韓宣は、軍謀掾でしたが、中途半端な能力の為に仕事も無くぶらぶらとヒマを潰しておりました。
宮殿の東掖(とうえき)門に差し掛かると、当時、臨菑(りんし)侯の曹植(そうしょく)の馬車に遭遇します。当時の礼義では、貴人に出会うと、目下の人間は道を避けるか、礼をする決まりになっていました。
韓宣は道を避けようと思いますが、生憎、さっきまで、土砂降りだったので、周辺は水溜りだらけ、濡れたくないので躊躇している間に曹植は近づき、咄嗟に韓宣は扇で顔を隠して、建造物に成り済まします。
もちろん、曹植は通過してくれるわけもなく、車を止めて、韓宣の官職と名前を尋ね「どうして礼をするか車を避けないか?」と問いただしました。
韓宣は、テンパりますが、完全に開き直り、、
「春秋の時代の礼では、君主の直臣は諸侯よりも立場は上です。だから礼をしないのです」と言い抜けました。
曹植は反論出来ず、面白いヤツだと思い、その後、王太子だった曹丕に韓宣とのやり取りの一部始終を語ったのです。曹丕は、それで韓宣という名前を覚えていて、その記憶が、殿前で刑罰を受けようとしていた韓宣に出会い蘇ったのでした。
晋の時代には、フンドシ一丁で叩かれる事はなくなる
魏の時代の恥ずかしさと痛さが混じった刑罰ですが、その次の晋の時代には衣服を脱がされる事はなくなり縛られはしますが衣服は着たままで刑罰を受けるようになります。
この魏の刑罰、魏のオリジナルではなく伝統があるようで、どうやら漢の時代も杖打ちは、フンドシ一丁で行ったようです。という事は、劉備(りゅうび)がしばいた督郵(とくゆう)も、フンドシ一丁で杖で撃たれたという事になるかも知れませんね。
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三国志ライターkawausoの独り言
その後、韓宣は曹丕に目を懸けられたのか、順調に出世し曹叡(そうえい)の時代には、九卿の一つである「尚書・大鴻臚(だいこうろ:外務大臣相当)」まで出世して、この時の仕事は見事なものであると讃えられました。
もし、あの日、雨上がりの道で曹植の馬車を無理にでも避けていたら尚書郎になった時にヘマをしてフンドシ一丁で縛られ曹丕に会わなかったら韓宣は九卿まで上る事なく人生を終えたかも知れません。人の縁とは本当に不思議なものですね。
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