曹丕(そうひ)は魏の初代皇帝として歴史に名を遺した人物です。彼は父曹操に似て非常に優秀な政治手腕を皇帝となってから発揮します。また多彩な能力を持った人材を使いこなして魏の国力を安定させた名君ですが、そんな彼にも嫌いな人物がおりました。
その名を鮑勛(ほうくん)と言います。曹丕と鮑勛はそりが合わずにいがみ合ってしまいますが、魏の群臣からは能力の高い人物として評価を受けておりました。
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太子時代の曹丕を補佐する役目に任命
鮑勛は曹操の盟友として青州黄巾賊討伐で活躍した鮑信(ほうしん)の息子です。彼は父鮑信が亡くなると曹操に仕えるようになります。その後曹操が後継者を曹丕に決定すると鮑勛を曹丕の落度を注意して無くす役目である、太子中庶子(たいしちゅうしょし)と役職を与えます。しかしこの役目についてから曹丕と鮑勛の間柄が悪くなっていくことになります。
曹丕が愛した夫人の弟を法に照らして処断
曹丕は曹操の後継者になることが決まった後、側室の夫人を寵愛します。ある日夫人の弟が、国によって管理されている布をパクってしまいます。この事件が起きたのは鮑勛が治めていた県で、彼はこの事件が発生すると早速犯人である曹丕夫人の弟を逮捕し、彼の罪状を判断した結果死刑に該当することが分かり、鮑勛は早速法に照らして、彼を処断しようと考えます。夫人の弟が処断されるかもしれないと知った曹丕は急いで「処断を免除せよ」と直筆の手紙を鮑勛へ送り、罪を免除するように頼み込みます。しかし鮑勛はこの手紙を無視して、夫人の弟を殺害してしまいます。曹丕は自らの手紙を無視して、処断を決行した鮑勛に対して、怒りと恨みを持ち始めます。
皇帝曹丕を戒める
曹操が病によってなくなると父の跡を継いだ曹丕が王位の位を襲名。その後、後漢最後の皇帝である劉協(りゅうきょう)から皇帝の位を譲り受け、魏の国を建国します。こうして魏の初代皇帝となった曹丕へ諫言を行った人物がおりました。もちろんその人物とは鮑勛です。彼は曹丕が皇帝の位に就任すると早速上奏文を書いて、提出します。彼が書いた上奏文の内容は「今一番必要なことは、軍事と農政を整えて、民衆の疲弊を取り除く事です。そのため宮殿の造営などの土木作業は後回しにするべきです。」との内容でした。曹丕はこの上奏文を見るなり、破り捨てて、彼の大好きな狩りへと出かけていきます。
曹丕に媚びない性格が災いをもたらす
皇帝となった曹丕へ度々、直言を呈して、怒りを買っていた鮑勛ですが、ついに曹丕が彼の言葉に激怒してキレてしまうことがありました。曹丕がブチ切れてしまった出来事とは、鮑勛や他の家臣を連れて狩猟に出かけたときでした。彼は家臣の中から、劉曄(りゅうよう)を見つけると彼に「こんなに汗をかいて健康にいいスポーツである狩猟の楽しみと宮殿の中で聞く音楽どっちの楽しみが勝っているかな」と尋ねます。すると劉曄は「狩猟の楽しみのほうが勝っていると考えます」とすぐに答えます。曹丕も満足げにうなずきますがたまたま鮑勛が劉曄の意見を耳に入れてしまいます。この意見を聞いた鮑勛はすぐに曹丕へ体を向けて「音楽というのは政治面や文化を形成する上で役に立ちますが、狩猟は生き物の命を奪っているだけで、行う意味があまりあるとは思えません」と痛烈に批判した後、劉曄に対して「君は陛下に阿るのが仕事であるのか。それならば君の様な者がいる朝廷を正さなくてはならない」と曹丕の意見に同意した劉曄に対しても痛烈な批判を向けます。この言葉を聞いた曹丕は顔を真っ赤にして激怒し、彼を朝廷内部の役職から左遷。鮑勛はまっすぐな意見で、上司であろうと同僚であろうと関係なく意見を述べてしまったことが災いにつながってしまいます。
重臣達から要職に推挙される
魏の重臣である司馬懿(しばい)や陳羣(ちんぐん)は鮑勛(ほうくん)の能力の高さを認めており、彼を朝廷の外で能力を発揮できないでいることは国にとって大きな損失であると、皇帝曹丕へ幾度も意見を述べます。曹丕は鮑が自らに従うことをしない臣下で嫌いでしたが、重臣達の度重なる進言を聞き、鮑を朝廷に戻して御史中丞(ぎょしちゅうじょう)の位を与えます。この御史中丞の位は官吏を監察する役目を負っており、その中でも一番偉い長官クラスの役職です。この役職に就くことになった鮑は今まで以上に曹丕に直言を行っていくことになります。
曹丕の呉討伐戦に真っ向から反対意見を述べる
曹丕は政治の能力は非常に優秀でしたが、軍事の能力は父曹操の血を受け継ぐことができずにあまり得意ではありませんでした。鮑勛が朝廷に戻ってくる前に曹丕は一度大規模な軍勢を興して、呉へ攻撃を行います。しかしこの戦は魏軍の完敗で終わってしまいます。曹丕はこの戦いに敗れたことが悔しく、再び呉へ攻撃を仕掛けようと考え、重臣達へ意見を求めます。この時、鮑が最初に口を開いて「陛下。昨年呉へ攻撃を仕掛けて大敗を喫しております。またこの戦の疲弊が抜け切れていないにもかかわらず、再度呉へ攻撃をするのは百害あって一利なしではありませんか。」と直球で反対意見を述べます。曹丕はこの意見を聞くと大いに怒り、彼を左遷します。そして曹丕は呉へ攻撃を仕掛けるべく大軍を南下させますが、この戦いは再び敗北に終わってしまいます。
太守が犯した罪を不問に付す
曹丕は呉軍に再度敗北すると、首都洛陽へ帰還する前へに陳留(ちんりゅう)へ立ち寄ります。この時軍勢を駐屯させるべく陣営の構築を陳留の城外で行っておりましたが、大軍であったことから中々完成することができませんでした。陳留の太守は曹丕に挨拶を行った後、鮑勛の元へ立ち寄ってから陳留へ帰還しますが、陳留太守は過って未完成であった陣営を横切って陳留へ帰還してしまいます。魏の法律だと陣営がある場合、決められた道を通る事が法律で定められておりました。横切ることは軍律違反で処断される可能性があります。このことを知った軍営の監察官である劉曜(りゅうよう)は法に照らして処断しようと考えますが、鮑勛はまだ軍営が完成する前であることを理由にして、罪にはならないと判断。この鮑の判断が後に災いを呼ぶ事になります。
罪を受ける
曹丕は陳留に数日間滞留した後、洛陽へ帰還します。洛陽に帰還してから数日後、軍営の監察官であった劉曜は罪を犯してしまいます。御史中丞であった鮑は彼の役職を解くべしとの判断を下します。劉曜は鮑勛の判断に憤りを感じ、曹丕の元へ行き「御史中丞は、陳留太守が犯した罪を見逃しております。」と告げます。曹丕はこの言葉を聞くとすぐに鮑勛を捕えさせて、廷尉(ていい)に彼の罪を調べさせます。廷尉とは司法などを司る役職で、裁判を行うことが主な業務となっております。そして彼ら廷尉が鮑勛の罪を綿密な調査の元に判断した結果、懲役五年程度のものであると判断を下します。しかし曹丕はこの判断に間違えがあると憤り、「この判断は間違えである。もう一度しっかりと調べてこい」と廷尉に命じます。再度彼らが調べてきた結果も同じ内容でした。そのため曹丕は激怒し「ふざけるな。奴は朕を貶める存在である。よって死刑が妥当なところであろう。」と処断するよう命じます。鮑勛処断の報を聞いた司馬懿や陳羣、鍾?(しょうよう)らの重臣達が必死に曹丕の判断を覆そうと進言しますが、曹丕の決意は固くついに鮑勛は処断されてしまいます。
三国志ライター黒田廉の独り言
こうして鮑勛は曹丕に嫌われてしまったことが原因で、亡くなってしまいます。彼の評価は非常に重臣達から高く、邪心を持って物事を判断せず、つねに公平な目で物事を判断していたことが高評価につながったのではないのでしょうか。だが、曹丕からは直言ばかりしてくる口うるさくて、気に食わない存在であったとされてしまった為に法に照らして処断されてしまいます。彼が処断された一か月ほど後に曹丕も亡くなってしまいます。もしかしたら理不尽に法で照らされて処断された鮑勛の呪いが彼にかけられてしまった為になくなってしまったのかもしれませんね。
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