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将軍ハンニバルとはどんな人?韓信と同時代にローマを震撼させた漫画みたいなスゴイ奴

2016年11月12日


 

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始皇帝

 

紀元前221年、秦の始皇帝(しこうてい)が中国を統一した頃、

西の果てのカルタゴの属州、ヒスパニアの都市、カルタゴ・ノヴァで

26歳の青年将軍が戦いの人生をスタートさせました。

 

ハンニバル

 

彼の名はハンニバル・バルカ、やがて彼は、その軍事的天才をフルに駆使して

地中海を制覇した古代ローマを震え上がらせる恐怖の名将になっていきます。

今回は、国士無双の韓信(かんしん)と東西で並び評される軍事的天才

ハンニバルの戦いの生涯を、はじめての三国志が熱く、分かりやすく紹介します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



父、ハミルカルも無敵の名将だった・・

ハミルカル

 

ハンニバルは紀元前247年、カルタゴの将軍の家柄、バルカ家に生まれます。

バルカとは「雷光」を意味しているそうですから、何とも将軍向きの氏です。

彼の父、ハミルカルは、第一次ポエニ戦役でカルタゴの将軍として出陣、

シチリア島に上陸して、ローマ軍を追い散らしイタリア半島南部に進出するなど

無敵の快進撃を続けますが、シチリアの攻防は戦争の一部であり、

ハミルカルに関係なく、海戦に敗北したカルタゴは紀元前241年にローマに

降伏し、勝ちっぱなしのハミルカルは納得いかないままカルタゴに帰還します。

 

復讐心で一杯の父は、ハンニバルに神殿でローマ打倒を誓わせる。

ハミルカル

 

敗北したカルタゴは、ローマにより多額の賠償金を掛けられます。

カルタゴは将官以外全部傭兵が伝統の商業国家で賠償金のせいで

傭兵に給料を支払えず怒った傭兵は反乱を起こします。

 

その時に傭兵を鎮圧して反乱の被害を抑えたのがハミルカルでした。

これにより、彼の人気は絶大になり国内に反抗出来る勢力が無くなります。

ローマへの復讐心に燃える彼は、騎馬民族であるヌミディア人などの傭兵を

集めると訓練を施し、やがて、イベリア半島に位置していた、

ヒスパニア(スペイン)遠征に出発します。

 

表向きは、カルタゴの支配地域を拡大して賠償金の返済を楽にするという理由ですが

実はヒスパニアに自身の王国を築き最強の軍団を編成してローマに復讐するという

遠大な目的を持っての出発でした。

 

当時少年だったハンニバルは、父の遠征に志願します。

その心意気を汲んだ父は、ハンニバルをバール神の神殿に連れていき、

「生涯ローマを敵とする」という誓いを立てさせます。

 

ハンニバルは、この誓いを破らず、遂に人生の全てをローマとの

戦いに捧げる運命を選ぶ事になるのです。

 

父が戦死、義理の兄も殺され、ハンニバルは将軍となる

ハンニバル

 

ハミルカルは8年の歳月を費やし、イベリア半島の支配を確立し、

諸部族を自軍に編入していきますが、途中で戦死します。

ハミルカルの跡を継いだ娘婿のハスドルバルが、更に戦争を続けて、

都市、カルタゴ・ノヴァを建設しますが、彼も暗殺されました。

 

紀元前221年、こうして軍権は26歳の青年ハンニバルに委ねられます。

カルタゴ本国もハンニバルを承認し、彼は父の念願だったローマ殲滅を

決行するべく、ローマとカルタゴが不可侵条約を結んでいた境界である

エブロ河を越えローマの同盟都市、サグントゥムを8カ月の包囲の末に陥落させました。

 

怒ったローマは、エブロ河を越えたのは条約違反であるとして

ハンニバルを懲罰するようカルタゴに求めますが、カルタゴは、

国民人気の絶大なハンニバルに手出しできず黙認しました。

 

ハンニバル、ローマ領内に侵攻、第二次ポエニ戦争勃発

 

紀元前218年、ハンニバルは本拠地、カルタゴ・ノヴァを出陣します。

歩兵9万、騎兵1万2千、戦象37頭という大軍で、ローマとカルタゴの国境

エブロ河を渡ったハンニバルは、ここで留守番の兵を残し、ピレネー山脈を越え

ガリア(現フランス)に入りました。

 

ローマはハンニバルのガリア侵入に気づきますが、深い森を進む、

ハンニバル軍の姿はすぐに見えなくなります。

 

ローマは焦り、何度も偵察騎兵を放ちハンニバル軍の位置の把握に努めますが

ハンニバルは、どこまでも隠密行動に徹し、やがてアルプス山脈を越える

前代未聞の行軍を開始します。上部イラストはアルプス山脈を越えるハンニバルの軍

 

 

アルプス越えの奇策でハンニバル敵の懐に飛び込む

ハンニバル

 

ハンニバルは、強大なローマを相手にするには、辺境でチマチマ

やりあうのではなく、ローマ本国に入りこみ一度の会戦で敵に甚大な被害を与えて、

ローマの同盟都市の離反を誘うのがもっとも効果的だと考えていました。

 

そこで、イタリア半島の入り口を覆うように聳えるアルプス山脈を横断したのです。

当時、軍隊でアルプスを越えるなど、誰も考えもしませんでした。

その盲点を突いたのがハンニバルの非凡な才能ですが、険しいアルプス越えで、

兵力は、歩兵2万、騎兵6千まで激減しました。

 

元老院驚愕、第二次ポエニ戦争の幕開け!

 

ハンニバルの軍勢が北イタリアに出現したというニュースに

ローマの元老院は仰天しました。

ハンニバルがアルプスを越えるなどとは考えてもおらず、

迎撃軍はイベリア半島に張り付けていたのです。

 

イベリア半島でハンニバルを待っていた執政官の

プブリウス・コルネリウス・スキピオは直ちにローマ軍を取って返して

迎撃に出ますが、疲労困憊のローマ軍は、ティキヌスの戦いで

ハンニバルに撃破され、スキピオ自身も負傷します。

 

ハンニバルの狙い通り、ローマ軍の敗北を見るや

周辺のガリア人部族はハンニバルに協力し始めました。

続くトレビアの戦いでも、ハンニバルは、もう一人の執政官

ティベリウス・センプロニウス・ロングスを撃破します。

 

ローマとの直接戦闘が起きた事により、ローマとカルタゴの

平和条約は解消され第二次ポエニ戦争が開始された事になります。

 

ハンニバルの快進撃が続き、元老院は非常事態を宣言

 

北イタリアに地盤を確保したハンニバルは、勢力拡大の為に南下して、

エトルリアに入ります。

それに対して、ローマは新しい執政官、グナエウス・セルウィリウスと

ガイウス・フラミニウスの両名が軍を率いて阻止に出ますが、

トラシメヌス湖畔の戦いで全滅し、二人の執政官は戦死しました。

 

相次ぐ大敗北に元老院は衝撃を受け、戦時に置かれる臨時職である独裁官を設置、

クィントゥス・ファビウス・マクシムスを任命し、全土に非常事態を宣言します。

ファビウスは、直接対決ではハンニバルに勝てないと考えて持久戦に持ち込み

しばらく、ハンニバルとローマ軍の直接対決は無くなりました。

 

負けなしのハンニバルは、基本戦略であるローマからの同盟都市の引き離しを

図る為に南イタリアへと進軍し、ローマ本国の捕虜には厳しい処分を行う一方で

同盟都市の捕虜には寛容に接して、ローマから寝返るようにメッセージを与え

即時解放するなど地道な努力を続けます。

 

不衛生な沼沢地帯が多い、南イタリアでハンニバルは疫病に感染し、

左目の視力を失い、隻眼になっています。

 

歴史に名高い、カンネーの戦いで数に勝るローマ軍を包囲殲滅

 

ハンニバルは、ローマの同盟都市を切り崩す為に派手な勝利を必要としていました。

彼の軍が勝利すればするだけ、ローマの権威は失墜し周辺都市が離反するのは

自明だからです。

しかし、独裁官、ファビウスはハンニバルの意図を見抜き、徹底して城に籠り、

直接対決を避けました、ハンニバルはファビウスの消極戦術に苦しめられます。

そこでハンニバルは、これみよがしにローマ領内で略奪を繰り返しました。

 

これは補給物資を得ながら、かつ

「ローマ兵は略奪を受けても城に籠って出てこない腰ぬけか?」と挑発する為でした。

これにはローマ市民からファビウスに対して猛反発が起きますが、

ファビウスは、どんな罵りにも耐えて消極戦術を変更しませんでした。

 

しかし、紀元前216年にローマで執政官選挙があり、主戦派の

ガイウス・テレンティウス・ウァッロとルキウス・アエミリウス・パウルスが

当選すると風向きが変わります。

効果が見えない持久戦に苛立つ、ウァッロは強硬な主戦論を唱えて、

ファビウスに反発し、同盟市から兵を集めてハンニバルに決戦を挑んだのです。

 

カンネーの戦いの顛末・・

 

ウァッロは、中央に重装歩兵を5万5千、軽装歩兵を9千、両翼に騎兵を6千名、

一方、ハンニバルは、中央に重装歩兵3万2千、軽装歩兵8千、両翼に騎兵1万です。

 

重装歩兵で勝るローマは中央を守る、ヒスパニア・ガリア歩兵を打ち崩し

一気に勝利しようと、重装歩兵を中央に集中しますが、ハンニバルは弓なりの

陣形を敷いていたので、ローマの歩兵は歩調が合わず、やや出遅れます。

 

その間に、左右両翼のハンニバル側のヌミディア騎兵、スペイン・ガリア騎兵は

数で劣るローマ騎兵と同盟軍の騎兵を撃破、逃げる騎兵を負わず、

そのまま中央のローマ重装歩兵の背後から圧迫を開始します。

 

ローマの重装歩兵は、中央のカルタゴ歩兵を打ち破ろうとしていましたが、

両翼のカルタゴ歩兵は、なおも頑強に抵抗し、ローマ兵の進出を喰いとめていました。

これによりローマ軍の戦列は、Ⅴの字になっていきます。

 

そこに背後からハンニバル軍のヌミディア・スペイン、ガリア騎兵が殺到します。

前後左右を敵に挟まれたローマ軍はパニックになり、逃げようと軍の中央に殺到、

圧力で兵士が多数押しつぶされるという大惨事を起こし軍は壊滅します。

 

(写真は執政官パウルスの最期』(John Trumbull, 1773年)

 

ローマ軍は6万人が死傷し、司令官パウルスが戦死、ウァッロは逃げおおせますが、

戦争についてきた元老院議員80名も戦死し、残留していた1万人のローマ兵も

降伏するという史上、類例がない大敗北を喫します。

兵力に劣る側が勝る側を包囲殲滅するという奇跡的な勝利は、カンネーの戦いとして

戦史の教科書に必ず掲載される理想的な戦術と賞賛されます。

この一戦でハンニバルの名は歴史に刻みこまれる事になるのです。

(写真引用元:カンナエの戦い wikipedia

皮肉にもカンネーの勝利でハンニバルは追い込まれる・・

 

カンネーの戦いの後、この戦争の余勢を駆って、一気にローマを滅ぼそう

という意見が騎兵隊長のマハルバルから進言されます。

しかし、ハンニバルは攻城兵器や兵站が整っていないという理由で、

進言を退けました。

 

マハルバルは憤慨し

「あんたは、戦争で勝利を得るのは上手いが、それを活用する事を知らない」

と忠告しています。

 

魏延 孔明

 

何だか、北伐の最初で長安を騎兵で電撃攻略しようと進言して、

孔明(こうめい)に拒否された魏延(ぎえん)のようですが、

確かに、カンネーでローマが大敗北した今なら、マハルバルの進言通り

ローマは大した抵抗もなく陥落したかも知れません。

 

ハンニバルは、カンネーの勝利で、同盟市は続々とローマから離れるだろうと

楽観していましたが、離反したのは一部に留まり、大半はローマ支持でした。

 

さらに、敗戦によりローマは消極戦で世論が統一され、勝利を得る以外に

アピールのしようがないハンニバルは徐々に追い詰められていきます。

 

泥沼の内戦とカルタゴ帰還・・

 

消極戦は、ハンニバルに不利に働きました。

ローマは決戦を避けながら、城に籠って頑強に守り、

ハンニバルに補給を与えないように仕向けていたのです。

 

窮地に陥ったハンニバルは、本国であるカルタゴに補給を打診しますが、

海軍力に不安があり、ローマに勝つ自信がないカルタゴは

日和見を決めハンニバルの思惑は外れます。

 

ハンニバルが外交力で諸外国を味方につけても、ローマは、

それらの国を各個撃破し、ハンニバルの拠点も、ハンニバルが遠征に出た

隙を突いて奪い返すなどハンニバルは東奔西走して疲れ果てます。

 

韓信と劉邦

 

この辺りは、漢の劉邦(りゅうほう)が、韓信(かんしん)彭越(ほうえつ)等を

活用して、各地で項羽の勢力を襲わせ項羽を疲れさせたのに似ていますね。

 

紀元前203年、やがて、ハンニバルのライバルとなる

プブリウス・スキピオ将軍が、アフリカ大陸に渡海して、

いきなりカルタゴを急襲し、迎撃してきたカルタゴ軍を撃破すると、

カルタゴは狼狽してローマと休戦協定を結びます。

 

しかし、カルタゴは休戦協定と同時に、ハンニバルをカルタゴに呼び戻す

という工作を行っていました。

それが露見すると、ローマは休戦協定を反故にしますが、

ハンニバルは、実に15年振りに故郷に帰還する事になります。

 

ハンニバル、ザマの戦いでスキピオに敗北・・

(写真引用元:wikipedia ザマの戦い

 

スキピオは、カルタゴ軍を破る前に、カルタゴに良質な騎兵を供給していた

ヌミディア王国を制圧して、騎兵の供給をストップしていました。

これまで優秀な騎兵の機動力で勝利を得ていたハンニバルは、歩兵では、

ローマに優越しても騎兵で劣る兵を編成する事になります。

ザマにおいてハンニバルとスキピオは会見し、ハンニバルは、

相互不可侵条約を結び、地中海を境に北をローマ、南をカルタゴが

支配するという和平案を提案します。

 

しかし、スキピオは、今回の戦争は、ハンニバルによる19年前の、

サグントゥム攻略が発端であるとハンニバルを批難しカルタゴ人との約束を

ローマは信用できないと告げます。

 

戦いではお互いを認め合った二人ですが、交渉では相いれず、

ここに紀元前202年ザマの戦いが起きますが、騎兵に劣るハンニバルは機動力に乏しく

戦象の攻撃も、スキピオの歩兵の散開戦術で無効化し、また軽歩兵を駆使した

スキピオは、動きの鈍い重装歩兵主体のハンニバルの軍勢を背後から突きます。

ハンニバルは大敗し、戦争は終結しました。

 

ハンニバル、行政官僚として改革を断行し賠償金を完済

 

これで、ハンニバルの軍人生命も終わったかに見えましたが、

カルタゴでは日和見主義で民衆の人気が無かった貴族政治が敗戦で倒れてしまい、

戦争の英雄であるハンニバルが返り咲く余地が残っていました。

 

ハンニバルはチャンスと見て、政治改革に意欲を見せ行政長官のスッフェトになり

行政の権限をこれに集中、行政府である104人委員会を選挙による公選にし

任期を無期限から2年に変更しました。

 

これにより優秀な人材を登用し、不可能と思われたローマへの賠償金を完済。

政治家としても優秀である事を内外に示します。

 

ローマに追われ続けてビテュニアで毒を飲み死亡

ハンニバル

 

ハンニバルは、さらにカルタゴ自体の建て直しに着手しますが、

強引な行政改革が裏目に出て、国内に反ハンニバル派を生み出します。

同時に不可能と考えられた賠償金を支払い終えた事で、ローマからも、

再び警戒されるようになります。

 

そんな中、ハンニバルがローマと敵対しているシリアと通じているという

怪情報が流れ、ローマが調査団を送る騒ぎになります。

身の危険を感じたハンニバルはシリアに亡命しました。

 

シリア、アンティオコス3世は、ハンニバルを軍事顧問として登用し

再び、ハンニバルはローマに立ちふさがるかに見えましたが、

ハンニバルの戦術を理解できる名将はシリアにはいなかったようで、

指揮官や王にまで無視される事になります。

 

結果、シリアのセレコウス朝は、マグネシアの戦いでローマに大敗、

アンティオコス3世は、ローマに降伏しました。

 

シリア戦争の後、ハンニバルはローマの追手を逃れ、クレタ島、

さらにビテュニアのプルシアス1世を頼りますが、

ローマは、プルシアス1世にハンニバルの身柄の引き渡しを要求、、

観念したハンニバルは毒を飲み死去します、享年65歳。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

ハンニバルの攻撃は、ローマを滅亡の淵に追いやりましたが、

ローマはハンニバルの戦術を研究して用兵の技術を向上させ、

さらに周辺国を滅ぼして強力になってゆきます。

 

生涯ローマを敵とする事を神に誓ったハンニバルは皮肉にも

怨敵のローマを強くする事にも貢献してしまったのでした。

しかし、史上にただ一人、ローマを滅ぼす寸前まで追い込んだ

ハンニバルの名前をローマ人は畏れと恐怖の念と共に

記憶し続け、ローマの都市にはあえて、街の広場にハンニバルの石像を

飾るという事までした所もあったそうです。

 

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君主論

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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