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関羽の降伏
官渡の戦い以前の話です。
劉備は、曹操のもとを逃れ、かつて支配していた徐州を拠点に曹操に反逆しました。
しかし、それを曹操は自ら攻め寄せました。
劉備は敗れてしまい、袁紹のもとに落ち延びていきます。
が、しかし。下ヒ城を守っていた関羽は取り残されて孤立し、抗戦をあきらめて降伏しました。
劉備の妻子を守っていたのです。
関羽の条件
『演義』は、このとき関羽が、①「降漢不降曹(漢に降るも曹に降らず)
〈漢に降伏するのであり、曹操に降伏するのではない〉」、
②劉備の夫人には何人も近づけない、
③劉備の所在が明らかになれば帰参する、
という三つの条件を付けて降伏した、と関羽の義を強調します。
『三国志』には、こうした条件の記載はありませんが、
関羽がやがて劉備のもとに戻ったことは史実ですね。
三つの条件の意味
また、張遼(ちょうりょう)に対して、
関羽が三つの条件を出して降伏することは、
『三国志演義』の古い版本である嘉靖本から変わりはありません。
毛宗崗本は、すでに書かれていた李漁の評を踏まえながらも、
これら三つの条件を
①君臣の分を弁ずるもの、
②男女の別を厳しくするもの、
③兄弟の義を明らかにするものと評しています。
それに対して曹操は、
①に対しては、「わたしは漢の丞相であり、漢とは即ちわたしである」として、
②と共に問題にしませんでした。
③には難色を示しましたが、結局三つの条件を受け入れ、関羽を降伏させました。
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それに対する毛宗崗の総評
第二十五回の総評で、曹操は漢ではなく、漢の献帝を操る逆臣であり、
劉備こそが漢である、と毛宗崗本は考えます。
「関羽は劉備を漢と認識しており、曹操を漢とは考えていない。
すでに①漢に帰して曹に帰せずと言っている関羽は、
③劉備に気して曹操には帰さないのである」と言います。
もっと詳しく
すなわち、関羽が奸賊曹操に降伏することなどありえず、
①「曹ではなく漢に降伏した」その漢とは劉備のことであり、その行方が不明であったため、
一時曹操に属したに過ぎない、と主張しているのです。
かなーり観念的な議論ですが、毛宗崗本は、関羽の降伏を義によって説明します。
……と、ややこしいことを書いてきましたが、かなりのこじつけですよね!
だって、一時的に曹操に属したという事実は変わりないのですから。
それを薄めるために、色々と議論を展開して、毛宗崗は関羽の降伏も義だと言っているわけで、
このように、何でも義にしてしまうのが毛宗崗なのです。
ちなみに、『三国志』にはそもそもこの三つの条件自体が出てこないので、
このお話もまるまる誰かの作り話だということが分かります。
千里 単騎を走らす
『演義』はさらに、関羽が義の実現のために払う努力を作り話として加えていきます。
……って書くとなんか、義を体現するのが関羽の目標みたいでよろしくないですね。
訂正。関羽の行った義の行為を作り話で増やしていきます。
それが、「千里走単騎(千里単騎を走らす、嘉靖本では千里独行)」です。
内容は、関羽が劉備のもとへと向かう街道の守護兵への連絡が遅れたために、
関羽は単騎で五つの関所を突破して六人の将を斬ったうえで、
劉備に帰参した、というものです。
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史実としては
ところが、これが史実とは全然違っています。
『三国志』によれば、このとき劉備は袁紹の命を受けて、元黄巾賊の劉辟とともに、
許の周辺を略奪しており(劉備のイメージも、この一文でかなり変わってきますね)、
許にいた関羽はすぐさま汝南の劉備のもとに帰ることができました。
劉備が攻め寄せているときに関羽が帰参しようとしたため、
曹操の側近もこれを追撃しようとした、というのが事実だったようです。
つまり、『演義』が設定するように、わざわざ五関に六将を斬る必要はなかったのです。
『演義』もそれは承知しておりまして、河北には劉備ではなく、
孫乾が待ち受けていて、劉備が汝南群に向かった旨を関羽に伝えます。
そこで、関羽は汝南群へ向かう途中、周倉に出逢い、張飛と合流した後、
再び河北に至るという複雑な経路を辿って、ようやく劉備と再会します。
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でもこれは、毛宗崗の創作ではない可能性も
『三国志演義』は、複数の著者の手による物語の組み合わせによって成立しています。
嘉靖本においては、「千里独行」の部分だけ集中的に「関公」という呼び名が現れ、
それ以外の部分は「関某」「雲長」と呼ばれていることから、
この物語は後からはめ込まれたと推測されています。
つまり、関羽の劉備への忠義を表現するために作られた物語であることは、ほぼ間違いないのです。
三国志ライター・秋斗のまとめ
さて、関羽の忠義にまつわる有名なお話は、かなりのものが作り話であることが判明しました。
しかし、前でも言いましたが、これらの物語は、関羽が神として崇められ始めて以降、
その神聖さ=忠義心(中国は儒教国家でしたからね!)の裏付けのために創作されたものたちです。
つまり、関羽が忠義の人とされたのには、『演義』が創作された以前の積み重ねられた、
歴史的な理由があるということで、間違いはないでしょう。
~参考文献~
渡邊義浩『関羽 神になった「三国志」の英雄』(筑摩書房、2011年)
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