関羽は本当に忠義の士だったの?三国志のタブーに挑む!

2016年11月19日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

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曹操 魏王

 

「許田打囲」とは?…

曹操(そうそう)献帝(けんてい)とその臣下たちと狩りに出かけたとき、

自分に不満を持つ者たちをあぶり出すために、わざと献帝の弓を取り上げて獲物を射て、

献帝に向けられた臣下たちの万歳を遮って自分が受けたことを言います。

三国志演義』の創作部分です。

 

関羽 大暴れ

 

→これを見た関羽は、曹操の無礼さに激怒し、曹操を切り捨てようとしましたが、

劉備が止めたので実行されることはありませんでした(もちろん、この部分も『演義』の創作)

 

 

これに対する総評

関羽神様

 

さて、このシーンについての毛宗崗本『三国志演義』の第二十回「曹阿滿 許田に打囲す」の総評では、

関羽(かんう)が曹操を殺そうとしたのは、人臣として大義を明らかにするものである。

劉備が殺そうとしなかったのは、君父のための謀は万全でなければならないからである。

君側の悪を除くことは最も難しい。

前後左右、みなその腹心爪牙であるため、

これを殺せば我が身に禍が及ぶだけでなく、君父に及ぶ可能性がある

 

と述べられています。

つまり、関羽の行動が人臣としての大義ではあるが、劉備の判断が正しいとされているのです。

その典拠とされているのが、関羽を止める劉備のセリフの中に出てくる「投鼠、器を忌る」です。

これは、『漢書』賈ギ伝を典拠とする俚諺であり、君側の奸を除こうとして、その混乱により、

君主を傷つけることを恐れる喩えのことです。

この場面だけであれば、この俚諺によって関羽と劉備それぞれの行動が正当化されます。

 

「義釈曹操」

曹操を逃す関羽

 

「義釈曹操」とは?…

赤壁から敗走する曹操を華容道で待ち受けていた関羽が、

意図的に曹操を見逃す場面。『演義』の作り話。

 

この場面の生む矛盾

曹操 関羽LOVE

 

関羽は、許田では「今日あの国賊を殺しておかなければ、のち必ず悪事を働きましょう」

と言っておきながら、華容道では、その国賊を故意に見逃すことになります。

すると毛宗崗本は、許田では関羽が曹操を殺さないということも「義」とすることになり、

曹操への対応が正反対であるこれらの二つの行為をともに

「義」と評価してしまう矛盾に陥ってしまいますよね

(ややこしいし論理ですが、頑張ってついてきてください)。

 

これに対する総評

 

 

そこで、毛宗崗は、第五十回「関雲長、義もて曹操を釈す」の総評にこう記します。

 

ある人は、関公と曹操について、なぜ、曹操を許田の時には殺そうとしたのに、

華容道では殺さなかったのか疑問であるという。

許田で曹操を殺そうとしたのは忠である。華容道で殺さなかったのは、義である。

順逆が分かたれていなければ忠をなすことはできず、

恩讐が明らかでなければ、義をなすことはできない。

関公は、忠は天をしのぎ、義は日を貫く。まことに千古のうちに一人のお方である。

 

 

と述べ、「ある人」の疑問としてこの矛盾を指摘しています。

毛宗崗も、矛盾に気づいていたんですね。

では、この矛盾に対して、毛宗崗はどう対処したのでしょうか。

 

関連記事:あの曹操が箱入り娘ってどういうこと!?華容道って、なに?

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毛宗崗の論理

関羽 神様

 

さて、毛宗崗本は、許田での関羽の行為を「忠」とし、

華容道での行為を「義」としています。

献帝を危険にさらさないという「忠」を曹操殺害という「義」より優先権するのです。

ただし、それは、義を棄てて中心を優先したというわけではありません。

毛宗崗本が「読三国志法」の中で、「三国志(※演義のこと)はその義を述べることを目的とする」

と尊重する『春秋』は、動機主義を取ります。

少し厄介なお話になりますが、説明してみましょう。

現在の刑法でも議論のある、殺そうとして殺せなかった者と、

殺す気はなかったが殺してしまった者と、どちらの方が罪が重いのか、という問題について、

『春秋』は、圧倒的に前者の罪が重いとします。

動機が行為より優先する、動機主義を取るからです。

 

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毛宗崗的結論

顔良と関羽

 

となれば、許田において、関羽は曹操を殺そうという動機を持っているので、既に義です。

そのうえで、献帝を危険な目に遭わせない、という忠を義よりも優先しました。

つまり、関羽は義であり忠なのです。

毛宗崗は、二つの作り話の間に生じた、曹操を殺そうとしたり、

殺さなかったりする矛盾を、関羽が忠義を備えているとの主張により、解消したのでした。

 

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三国志ライター・秋斗のつぶやき

秋斗

 

書いていて思いました。

毛宗崗の言いたいことはよく分かります。

『三国志演義』が成立した頃には既に関羽は神として崇められていて、

それに合わせなければならなかったのもよく分かります。……でも。

でも、強引過ぎるやろう、と。

しかし同時に、どうせ庶民が読む『三国志演義』なのにそういった細部までこだわってしまう

毛宗崗の作者としてのプライドには、

文章を書く人間としては、少し共感してしまうところもありますね。

さて。引き続き『関羽の義』について掘っていきますよ。

どうぞ次のページに進んでくださいませ。

関羽の降伏

 

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曹操と劉備

 

官渡の戦い以前の話です。

劉備は、曹操のもとを逃れ、かつて支配していた徐州を拠点に曹操に反逆しました。

しかし、それを曹操は自ら攻め寄せました。

劉備は敗れてしまい、袁紹のもとに落ち延びていきます。

が、しかし。下ヒ城を守っていた関羽は取り残されて孤立し、抗戦をあきらめて降伏しました。

劉備の妻子を守っていたのです。

 

関羽の条件

関羽千里行 ゆるキャラ

 

『演義』は、このとき関羽が、①「降漢不降曹(漢に降るも曹に降らず)

〈漢に降伏するのであり、曹操に降伏するのではない〉」、

②劉備の夫人には何人も近づけない、

③劉備の所在が明らかになれば帰参する、

という三つの条件を付けて降伏した、と関羽の義を強調します。

『三国志』には、こうした条件の記載はありませんが、

関羽がやがて劉備のもとに戻ったことは史実ですね。

 

三つの条件の意味

関羽 3つの条件

 

また、張遼(ちょうりょう)に対して、

関羽が三つの条件を出して降伏することは、

『三国志演義』の古い版本である嘉靖本から変わりはありません。

毛宗崗本は、すでに書かれていた李漁の評を踏まえながらも、

これら三つの条件を

①君臣の分を弁ずるもの、

②男女の別を厳しくするもの、

③兄弟の義を明らかにするものと評しています。

それに対して曹操は、

①に対しては、「わたしは漢の丞相であり、漢とは即ちわたしである」として、

②と共に問題にしませんでした。

③には難色を示しましたが、結局三つの条件を受け入れ、関羽を降伏させました。

 

関連記事:三国志時代に降伏や降参するときはどうやってサインを出していたの?

関連記事:義将関羽が曹操に出した降伏の3つの条件

 

それに対する毛宗崗の総評

劉備 曹操

 

第二十五回の総評で、曹操は漢ではなく、漢の献帝を操る逆臣であり、

劉備こそが漢である、と毛宗崗本は考えます。

「関羽は劉備を漢と認識しており、曹操を漢とは考えていない。

すでに①漢に帰して曹に帰せずと言っている関羽は、

③劉備に気して曹操には帰さないのである」と言います。

 

もっと詳しく

 

すなわち、関羽が奸賊曹操に降伏することなどありえず、

①「曹ではなく漢に降伏した」その漢とは劉備のことであり、その行方が不明であったため、

一時曹操に属したに過ぎない、と主張しているのです。

かなーり観念的な議論ですが、毛宗崗本は、関羽の降伏を義によって説明します。

……と、ややこしいことを書いてきましたが、かなりのこじつけですよね!

だって、一時的に曹操に属したという事実は変わりないのですから。

それを薄めるために、色々と議論を展開して、毛宗崗は関羽の降伏も義だと言っているわけで、

このように、何でも義にしてしまうのが毛宗崗なのです。

ちなみに、『三国志』にはそもそもこの三つの条件自体が出てこないので、

このお話もまるまる誰かの作り話だということが分かります。

 

千里 単騎を走らす

関羽

 

『演義』はさらに、関羽が義の実現のために払う努力を作り話として加えていきます。

……って書くとなんか、義を体現するのが関羽の目標みたいでよろしくないですね。

訂正。関羽の行った義の行為を作り話で増やしていきます。

それが、「千里走単騎(千里単騎を走らす、嘉靖本では千里独行)」です。

内容は、関羽が劉備のもとへと向かう街道の守護兵への連絡が遅れたために、

関羽は単騎で五つの関所を突破して六人の将を斬ったうえで、

劉備に帰参した、というものです。

 

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史実としては

劉備 黒歴史

 

ところが、これが史実とは全然違っています。

『三国志』によれば、このとき劉備は袁紹の命を受けて、元黄巾賊の劉辟とともに、

許の周辺を略奪しており(劉備のイメージも、この一文でかなり変わってきますね)、

許にいた関羽はすぐさま汝南の劉備のもとに帰ることができました。

劉備が攻め寄せているときに関羽が帰参しようとしたため、

曹操の側近もこれを追撃しようとした、というのが事実だったようです。

つまり、『演義』が設定するように、わざわざ五関に六将を斬る必要はなかったのです。

『演義』もそれは承知しておりまして、河北には劉備ではなく、

孫乾が待ち受けていて、劉備が汝南群に向かった旨を関羽に伝えます。

そこで、関羽は汝南群へ向かう途中、周倉に出逢い、張飛と合流した後、

再び河北に至るという複雑な経路を辿って、ようやく劉備と再会します。

 

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でもこれは、毛宗崗の創作ではない可能性も

三国志 関羽

 

『三国志演義』は、複数の著者の手による物語の組み合わせによって成立しています。

嘉靖本においては、「千里独行」の部分だけ集中的に「関公」という呼び名が現れ、

それ以外の部分は「関某」「雲長」と呼ばれていることから、

この物語は後からはめ込まれたと推測されています。

つまり、関羽の劉備への忠義を表現するために作られた物語であることは、ほぼ間違いないのです。

 

三国志ライター・秋斗のまとめ

秋斗

 

さて、関羽の忠義にまつわる有名なお話は、かなりのものが作り話であることが判明しました。

しかし、前でも言いましたが、これらの物語は、関羽が神として崇められ始めて以降、

その神聖さ=忠義心(中国は儒教国家でしたからね!)の裏付けのために創作されたものたちです。

つまり、関羽が忠義の人とされたのには、『演義』が創作された以前の積み重ねられた、

歴史的な理由があるということで、間違いはないでしょう。

 

~参考文献~

渡邊義浩『関羽 神になった「三国志」の英雄』(筑摩書房、2011年)

 

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一騎打ち

 

 

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