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夏侯惇の死後、一族はどうなったの?忙しかった夏侯惇はイクメンではなかった?

2016年11月20日


 

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曹操 夏侯惇

 

曹操(そうそう)の分身として最も信頼された武将であった

夏侯惇元譲(かこうとん・げんじょう)

隻眼というフォルムから猛将だと思われがちですが、事実は武将としてではなく

政治家としての才能の方に秀でた人物でした。

 

夏侯惇

 

さて、そんな夏侯惇の一族は、夏侯惇の死後、どうなったのでしょうか?

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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夏侯惇の後を継いだのは、夏侯充

 

夏侯惇には、夏侯充(かこうじゅう)、夏侯楙(かこうぼう)、

夏侯?子臧(かこう?しぞう)、夏侯?子江(かこう?しこう)という四名の男子がいます。

記録では4名ですが、実際の夏侯惇には八人の子と二人の孫がいたようです。

その中で、夏侯楙と夏侯惇の弟の夏侯廉(かこうれん)は

すでに夏侯惇の生前に列侯に封じられていました。

 

※ちなみに、?がついている2名は、禕(いみな)が

分っていないのでそうしています。

 

曹丕

 

魏の文帝、曹丕(そうひ)は、建国の功臣である夏侯惇の功積を称えて

子孫を残らず列侯にしようと夏侯惇の食邑の中から千石を分けて、

夏侯充以外の夏侯惇の七子二孫を関内侯にします。

 

もちろん、封爵は男だけですから、もしかすると

夏侯惇には、女の子や孫も居たかも知れません。

そうだとすると、曹操には及ばないにしてもかなりの子沢山です。

 

さて、夏侯充ですが、父とは違い、高安郷侯の位を継いだ以外には、

これという功積は無かったようです。

 

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夏侯充の後を継いだのは、夏侯廙

 

夏侯充は西暦224年に死去しました。

父の夏侯惇の死後4年とは、かなり早いです。

その夏侯充の後を継いだのは、夏侯廙(かこうよく)という人物でした。

 

この夏侯廙も、名前に聞き覚えがない事に恥じず、

祖父の夏侯惇が死去した時に13歳で関内侯になった事と

父の死後に家督を継いで高安郷侯になった以外に、

これという功積も見られません。

 

夏侯廙は、西暦239年死去します。

記録が確かなら、32歳前後という早死になります。

 

夏侯廙の死後、家督は夏侯充の弟、夏侯佐が継ぐ

 

夏侯廙は、若死にだったようで、嫡男は、まだ幼児でした。

そこで、夏侯充の次男の夏侯佐(かこうさ)を代わりに継がせます。

こうして、高安郷侯になった夏侯佐ですが、彼には嫡男がいません。

 

西暦266年、彼が死去すると、すでに魏から禅譲を受けて

晋を建国していた武帝、司馬炎(しばえん)から勅が降ります。

 

「夏侯惇は魏の元勲であり、その手柄は竹帛にも書かれている程である

その家を絶やすわけにはいかない、近親から家を継がせて血脈を繋ぐように・・」

 

こうして、一度は幼かった為に家を継げなかった夏侯劭(かこうしょう)が、

高安郷侯の地位を継ぐ事になります。

 

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夏侯劭の時代に、夏侯惇の家は断絶・・

 

ところが、こうして、地位を回復した夏侯劭にも

子孫はいなかったようで、ここで夏侯惇の家は途絶えています。

 

夏侯劭がいつ亡くなったのか分りませんが、時期的に考えて、

王朝も交替している事ですし、それ以上、近親者を探して

夏侯惇ブランドを引き継がなくても良かったのかも知れません。

 

高安郷侯の地位は、違う武将に引き継がれたのでしょう。

 

親の七光で出世した兄を妬んで、引きずり落そうという泥試合

 

はっきり言いまして、夏侯惇の子孫には、ろくな人がいません。

人畜無害なら、まあいいとしても、これから紹介する二人は、

兄弟同士で愛憎の泥試合をして家名に傷をつけています。

 

夏侯惇が死去した時、次兄の夏侯楙は、葬儀の際の礼義がなっていないと

弟の夏侯?子威、夏侯?子藏の事を讒言しました。

 

しかし、この夏侯楙、曹操の娘の清河(せいが)公主をもらって出世した、

「親の七光男」で女遊びと金儲けと遊興に耽るというダメ人間でした。

そんなどうしようもない兄なのに、地位だけは高く鎮東将軍で持節、

更には夏侯淵(かこうえん)の後継として関中都督も兼任して、

副首都とも言える長安を守備していました。

 

そんな兄貴に讒言されたのですから、二人の弟は内心穏やかではありません。

(お前なんぞに言われたくねえよ、、クソ兄貴が今に見てろ!)

 

そこで、夏侯?子威と夏侯?子藏は、夫の浮気ですっかり夫婦仲が、

冷めきっていた清河公主を巻きこんで夏侯楙を曹叡(そうえい)に讒言してします。

曹叡は、度を過ぎた夏侯楙のご乱行に激怒して、これを処刑しようとしますが、

長水校尉の段黙(だんもく)が曹叡に弁明します。

 

「陛下、これは、兄弟同士の痴話喧嘩の類です。

どうか、本気になさいませぬように・・」

 

これで曹叡は気を静めて、結局讒言は失敗しました。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

 

夏侯惇の子孫達の話は、全部集めても、夏侯惇一人の伝記にも及びません。

それはそうとして、一番目立つのが、兄を陥れようとする兄弟同士の

泥試合とは、死んだ夏侯惇があまりにも可哀想です。

 

もしかすると、忙しかった夏侯惇は、それほど子育てに熱心ではなく

そのせいで、子孫はこうなった、、という事かも知れません。

まったく、鷹がトンビを産んだという残念な夏侯惇一族です。

本日も三国志の話題をご馳走様でした・・

 

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魏のマイナー武将列伝

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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