もし郭嘉が魏の建国まで長生きしていたら魏の内閣総理大臣になっていた?

2016年11月20日


 

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郭嘉

 

 

曹操に信頼された軍師のひとり、郭嘉(かくか)。彼の官位は「軍祭酒」だったと伝わっています。あまり聞きなれない官位です。古代より祭りで酒杯を掲げるのは上位のものだったことから、リーダー格を祭酒と呼んでいたようです。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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軍祭酒って何?

郭嘉

 

 

記録によると曹操は西暦198年(建安三年)に「軍師祭酒」という新しいポストを作りました。当時の曹操は袁術に袁紹、呂布など四方八方を敵にしています。すべての方面で手を回すことが難しくなっていた曹操にとって自分の意を汲み、作戦を組み立てる参謀が数多く必要だったのです。

 

おそらく、軍師祭酒とは有力な参謀たちの部署を統括する役職だったのではないでしょうか。軍祭酒と軍師祭酒が同じ位を指しているのならば、郭嘉は曹操旗下の才能溢れる参謀たちを従えていたことになります。

 

 

董昭(とうしょう)からの考察

董昭

 

同じく軍祭酒に任じられたものに董昭(とうしょう)がいます。袁家討伐、烏丸討伐に功績があった人物です。董昭が軍祭酒になったのはその後の話なので、西暦207年(建安十二年)以降のことだと思われます。北伐で病気になった郭嘉の後を継いだ形だったのではないでしょうか。

 

郭嘉

 

郭嘉は残念ながらこの年に亡くなりますが、董昭は長命で、80歳まで健在でした。董昭は曹操が魏公、魏王になるときに尽力します。魏国建国の立役者となるのです。そうして董昭はやがて三公のひとつである司徒となります。こう考えると、それ以前に軍祭酒だった郭嘉も、生きていれば三公まで出世してもおかしくはありません。

 

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荀攸からの考察

荀攸

 

郭嘉が曹操の陣営に加わる前から軍師に任じられていたのが荀攸(じゅんゆう)です。官位は尚書でした。郭嘉が加わってからはほぼ同等に扱われていたようにも感じますが、軍師としてのリーダーはあくまでも荀攸だったそうです。軍師筆頭が荀攸で、そのやや下の軍師に郭嘉がいたという図式なのでしょうか。

 

荀攸

 

荀攸は董昭同様に袁家討伐、烏丸討伐において功績を認められて「中軍師」に任じられています。晴れて後漢の正式軍師になったわけです。軍師のリーダー格だった荀攸が昇進して中軍師ではおかしいような気もしますね。曹操が丞相府を復活させたために付随する中軍師も復活したようです。

 

加増で領地は倍になったものの呼び名的にはあまり出世したようには思えませんが、こんなんで荀攸は納得したのでしょうか。それはさておき、同じく鍾繇が前軍師に任じられており、毛玠は左軍師に任じられました。ちなみにこの荀攸はその後、三公まで出世することはありませんでしたが、ある種、その官位に匹敵する重職の尚書令にはなっています。こう考えると、郭嘉が生きていれば三公もしくは尚書令までは出世できたと考えられます。

 

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鍾繇からの考察

鍾繇(しょうよう)

 

前軍師になった鍾繇(しょうよう)ですが、曹操の太子である曹丕とのつながりが深く、曹丕が帝(文帝)になってからはなんと「相国」にまで出世しています。相国といえばあの董卓(とうたく)を思い出しますね。

 

 

相国 董卓 ゆるキャラ

 

 

宮中での帯剣を許され、靴を履いたまま昇殿することも認められていた特権階級です。三公よりも上の官位です。こう考えると、郭嘉が生きていれば相国まで出世した可能性もあります。

 

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郭嘉特集

 

 

 

三国志ライター ろひもと理穂の独り言

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曹操配下の軍師として忘れてはいけないのが「我が子房」と呼んで一番の信頼を寄せていた荀彧(じゅんいく)です。曹操が献帝を許に迎えた際にいち早く尚書令に出世しました。しかしどんなに曹操が薦めても荀彧は三公の官位に就くことを拒否しました。

 

荀彧と曹操

 

そこには荀彧なりのこだわりがあります。要するにどんなに活躍しようが、出世するかしないかには本人の意向も係わってくるということですね。果たして郭嘉が生きていたとしてどこまでの出世を望んだのでしょうか。

 

郭嘉

 

伝わってくる話では、やや変わり者の郭嘉さんですから、もしかしたらまったく出世に興味なかったかもしれません。九歳年下となる「軍師連盟」の主役・司馬懿(しばい)とは対称的な人生を歩んだかもしれませんね。

 

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ろひもと理穂

三国志は北方謙三先生の作品が一番好きです。 自分でも袁術主役で小説を執筆しています。ぜひこちらも気軽に読んでください! 好きな歴史人物: 曹操、蒲生氏郷

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