三国志の時代の灯りは取扱い注意なワイルドな松明だった!

2016年11月22日


 

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張良㈫ 成長編05

 

当たり前ですが、三国志の時代にだって昼と夜があります。昼間は太陽で明るくても、夜になったら暗くなって作業に困ったりした筈です。

 

今のようにスイッチ一つで電気がつく事などない時代、人々は、どうやって灯りを調達していたのでしょうか?今回は知っているようで知らない、三国志の時代の灯り事情を解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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周の時代から、灯りは松明と決まっていた

西遊記はどうやって出来たの?三蔵法師編

 

私達は日本の時代劇のイメージで、昔の灯りと言えば蝋燭(ろうそく)をイメージします。そうでないなら、小皿の上で燃える油燈(ゆとう)を考えてしまうでしょう。しかし漢の時代には、蝋燭は蜜蝋(みつろう)として入ってきてはいましたが、輸入品であり、とても高価で日常で使えるような代物ではありませんでした。

 

油燈は荘子に、「山木は自ら寇(き)られ、膏(こう)火は自ら煎らる」とあるように、すでに春秋戦国の頃にはありましたが、植物油は発明されていないので牛や山羊の油を小皿に盛った獣脂(じゅうし)でとても高価でした。

 

※「山木は自ら寇られ、膏火は自ら煎らる」の意味は、世の中の役に立つモノはその為に人に利用され天寿を全うできないが、役立たずは、無益である為に禍を受けず、かえって長寿するという事。

 

代わりに利用されたのが、薪を紐で棒に巻き付けた松明(たいまつ)です。この松明、実に古代の周の時代から宋の時代まで2000年近く、中国における主な灯りの担い手でした。もちろん三国志の時代だって、灯りといえば松明だったのです。

 

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当時の学校には灯り係が存在していた

曹操 手紙

 

松明は、蝋燭や油よりは輝きは強いのですが欠点もあります。燃えカスの灰が下にどんどん落ちて、部屋を汚してしまいますし、蝋燭などに比べると、持ちが悪く何度か取り替える必要がある事です。それにボウボウと燃えますから、放置して燃やしておく事は危険で、必ず人に持たせて火を警戒する必要がありました。そこで、夜中も作業をする学校や役人の家では、松明を持つ係がいて学校が終わるまで、或いは主人の作業が終わるまでは、室内で、延々と松明を持ち続けないといけなかったのです。学校の場合には、弟子同士で松明の係を交代して回していますが、役人の家の場合には、一晩中、松明を持ち続ける係の人は、大層、しんどかったであろう事が想像できます。

 

加減が激ムズ! ヒゲを焼いてしまう、ライター相手の灯り係

正史三国志を執筆する陳寿

 

また、当時は夜に執筆をする人も松明を近くにおいて文字を書いています。執筆は自分の影が出来ても暗くて文字が書けませんから、次第に灯り係の人を近くに寄せるようになり、案の定、熱中している間に松明に顔が近づきヒゲを火で焼き「うわっちゃああああ!あちっ!あちっ!」というような、コントのような事件も多数発生したという事です。

 

陳寿

 

もしかしたら、三国志を書いた陳寿(ちんじゅ)も書いてはいませんが、執筆に熱中して何度かヒゲを焼いたかも知れませんね、

 

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厳しく守られた灯り係の人の礼義作法

 

灯り係には、厳しい決まりがありました。まず、灯り係は部屋の片隅に行かなければなりません。松明の煙や灰で人の迷惑にならない為です。孔子(こうし)の弟子である曾子(そうし)が病気で寝込んだ時にも、一人の童子が部屋の隅で松明を灯している様子が記録されています。

 

また「礼記」によると、松明を持つ人は松明を譲り合ったり、遠慮をしたり、歌を歌うような事も厳禁とされています。このような行為で気が緩んで、誤って松明を落してしまうと火傷や火災の危険があった為です。灯り係の人は、必ず松明は左手に持ち、真下には灰落としの皿を置いて、灰はすべて、この皿に落ちるようにし、仮に衣服に灰がついたら必ず右手で払い落します。

 

予備の薪を近くにおいて、燃えている時間を見て、新しい薪を松明に差し込んで火が絶えないように工夫しました。

 

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三国志節約術!宴会は始まるまで真っ暗だった・・

劉邦と項羽

 

宴会は、仕事が終わってから、始まる事も多く夜になる事もあります。

 

しかし、当時の人々は松明の消費を節約する為に出席者が全員揃うまでは松明は点けないようにしていたようです。宴会が始まるまでは、室内は真っ暗という事ですが、長時間続く宴会では、松明の消費もバカにならないので、そのようにして経費を節減している家庭も多かったようです。始まるのを待っている間、出席者は本も読めないし、真っ暗で何も出来ないので、さぞや退屈だったでしょうね。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

さて、この松明には、もうひとつ不便な点がありました。それは、密談が出来ないという事です。夜中に不穏な計画を練ろうとしても、かならず部屋の隅で松明を持って立っている部下がいて邪魔です。

 

早めに劉備を暗殺しようと曹操に献策する郭嘉

 

今と違って、当時の夜は静かですから、ヒソヒソ声は嫌でも松明係に聞こえてしまう事になりました。このような事から、陰謀をめぐらす時には油燈を使うか、外に出て、月明かりの下で話をするか、いっその事、昼に相手を呼んで密談するしかなかったのです。昼に行われる陰謀って、なんだか間抜けな感じですね。本日も三国志の話題をご馳走様・・

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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