高祖・劉邦(りゅうほう)が亡くなると漢帝国は呂雉(りょち)が握ることになります。
彼女がこうしてやりたい放題やったおかげで漢の国は内政が乱れ、
弱体化してしまいます。
そして彼女の死後、漢の功臣である周勃(しゅうぼつ)や劉邦の軍師としてその名を轟かせた
名軍師・陳平(ちんぺい)達の活躍によって
呂雉の一族を殺害して漢の皇帝が政治を行っていく時代となります。
そしてこの時の皇帝こそ漢の文帝と言われる人物ですが、
彼の時代に匈奴が攻め込んできます。
この時に将軍達を漢の首都である長安を守るために四人の将軍を長安の四つの門へ派遣し、
守備させます。
この時に守備を命じられた周亜夫(しゅうあふ)は部下達へあることを命じます。
今回はその命令が名言として残っているのでご紹介しましょう
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劉邦が勝てなかった匈奴が攻め込んできた
劉邦は天下統一後、北方の騎馬を主体とする異民族である匈奴が漢に攻撃を行ってきたので、
大軍を率いて戦いを挑みます。
しかし劉邦軍は匈奴軍に追い詰められて敗北。
そして漢は匈奴にかなり有利な条件で和睦することになります。
文帝が皇帝に即位した当時もこの盟約は生きており、
毎年多額の贈り物を匈奴へ貢いでおりました。
だが、この盟約に反して匈奴軍が漢の領土へ攻撃を仕掛けてきます。
首都・長安防衛を命ずる
文帝は漢の首都が匈奴軍の攻撃を受ける可能性を考慮して、
3人の将軍を呼び「将軍達に長安の城門守備を担当してもらう」と命令を下します。
この3人の将軍達はそれぞれ担当する城門に向かい、城門の強化を行い守備を開始。
文帝に命じられて城門を守備した四人の将軍は除厲(じょれい)、劉礼(りゅうれい)、
周亜夫(しゅうあふ)の三人です。
除厲は長安の北の門。
劉礼は長安の東門。
そして周亜夫は長安の西門を守備することになります。
文帝の巡察
文帝は3人の将軍が守備を行っている各門へ手抜かりがないかを確認するため巡察を行います。
北門と東門を守備していた将軍達は皇帝が来ることを知ると、
陣営内を綺麗にして将軍や将校達は全員騎乗して、皇帝を出迎えます。
文帝は彼らの迎え方に満足し、最期の場所である長安の西門の巡察へと向かいます。
西門は皇帝が来ても知らん顔
西門を守っている周亜夫は部下に「君たちは私の意見だけを聞いていれば良い。
皇帝陛下から詔(みことのり)がもし届いたとしても、その詔を聞く必要はない。
私以外の意見を聞いて軍律を乱すことは許すわけにはいかないので覚悟してもらいたい。」と
通達します。
このように通達していたため文帝が周亜夫が守っている西門に到着しても、
文帝を迎えることをせず、城門すら開けないといった徹底ぶりでした。
文帝の部下が城門を開けないことに激怒し、将校へ「キサマら。皇帝陛下自ら来ているのに、
なぜ城門すら開けないのだ。」と怒鳴ります。
しかし将校は「周将軍から言われたことを忠実に守っているだけです。」と反論。
文帝は仕方なく皇帝の使者の証である節を持たせて周亜夫へ
「将軍の陣営を見舞いたいと思ってきた」と述べさせます。
彼は文帝の使者の言葉を聴いてやっと城門を開いて、文帝を迎え入れることにします。
前漢ライター黒田廉の独り言
今回の周亜夫の命令を史記では「軍中では将軍の命令を聞かせ、
皇帝の詔を聞かず」として残っております。
この言葉は周亜夫がいかに軍律を重んじているのかを表しているエピソードであり、
文帝も周亜夫の陣営を出てから側近へ
「周亜夫こそ真の将軍である。他の二人とは比べ物にならない。」と周亜夫を褒めたたえています。
そして彼は景帝の時代に起きた呉楚七国の乱が起きた時にこの反乱を鎮圧するための
総大将として任命されることになります。
「今回の前漢のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃあまたにゃ~」
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