西暦200年(建安五年)は三国志の歴史のなかでも激動の年といえます。
1月には献帝(けんてい)の外戚である董承(とうしょう)が曹操(そうそう)の暗殺に失敗します。
さらに、徐州の小沛で再度独立した劉備が曹操にあっさりと敗れました。
4月には「小覇王」とも呼ばれた江東の覇者である孫策(そんさく)が暗殺されました。
そして10月には勢力で劣る曹操が河北の覇者である袁紹(えんしょう)を
「官渡の戦い」で大逆転しています。
賈詡が、重要な決断を下すための助言をするのは、
この前年からこの年にかけてのことといわれています。
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逆転の発想
賈詡はこのとき、南陽郡に拠点におく張繍(ちょうしゅう)の参謀をしていました。
ここに河北の覇者である袁紹の使者が来るのです。
飛ぶ鳥落とす勢いの袁紹の使者ですからずいぶんと偉そうだったようです。
使者は「曹操を滅ぼした後に涼州の刺史に任じる」という袁紹の言伝を持ってきました。
曹操と敵対していた張繍はこれ幸いに話に乗ろうとしましたが、賈詡が一喝します。
「血縁のものすら束ねられないものが、なんで志のある人物の上に立てるだろうか」
と使者を罵倒するのです。この血族というのは袁紹と
袁家の家督争いをしていた袁術(えんじゅつ)を指しています。
袁術はさんざん国をかき乱した後、前年の199年に病死しています。
使者は怒って帰ってしまいましたが、主の張繍はよくわからずに驚いていました。
賈詡は「殿が三年前に曹操を裏切った原因は、曹操自身もよくわかっています。
旗色の悪い曹操に味方してこそ心から感謝されるのです。
尊大な袁紹などに加担しても感謝などされませんよ」と進言します。
この言葉で張繍は曹操側につくことを決め、これが曹操の大勝利に繋がるのです。
抜群のタイミング
ここぞというときの行動のタイミングで勝敗が決まる場合があります。
しかしこのタイミングというものは凡人にはなかなか計りにくいものがあります。
例えれば「株の売買です」。株価が下がったときに買い、
上がったピークで売ると大勝しますが、逆になると大敗します。
簡単に思われるかもしれませんが、
実際に未来がわからない状態でこれを読み切ることはたいへんに難しいことです。
賈詡の一番の長所は、このタイミングを計ることが抜群だったということです。
張繍にしても一番自分を高く売れるタイミングで曹操に帰順したことになります。
曹操にとっても利点は多くあり、これで後背の敵を気にすることなく、
前面の袁紹に集中することができるようになりました。
曹操としても以前裏切られて息子や甥っ子を殺されたことに執着している場合ではなかったのです。
袁紹に勝つことが一番の目標でした。
そのためには「背に腹は代えられぬ」というのが曹操の本音だったことでしょう。
賈詡は曹操の性質と現状を読み切って帰順を進言したのです。
中原の平穏
戦乱が続く中原に平穏をもたらしたのが曹操の河北平定になります。
これによって曹操領の中原まで攻め込んでくる勢力がなくなったからです。
賈詡が進言せずに張繍が袁紹と組んでいたら、曹操の官渡の戦いの勝利はなかったかもしれません。
そう考えると、言葉だけの働きながら、このときの賈詡の功績はとても大きなものがあります。
賈詡の進言によって、曹操は一日も早く河北を平定することができ、中原に平穏が訪れたからです。
このような逆転の発想と決断は並みの人間にはできません。
将来を多角的に捉え、自由な考え方ができる賈詡だからこその助言です。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
戦いではなく、降伏の進言をして名軍師と呼ばれる人物はあまりいません。
そう考えると、「軍師連盟」の主役である司馬懿(しばい)をはじめとした
三国志の時代の名軍師は無数にいますが、賈詡はかなり特筆すべき人物だったのではないでしょうか。
WIN-WINの関係・タイミングを見つけ出す天才。
賈詡に関してはそう呼べるのかもしれません。
まさに一流の政治家です。
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