始皇帝は戦国七雄と言われた国々をキングダムの主人公・李信やヒロイン羌瘣(きょうかい)などの将軍を投入して天下統一を果たします。
しかし始皇帝の死後、陳勝(ちんしょう)・呉広(ごこう)の反乱が勃発したことがきっかけで、全国各地で反乱が勃発します。
この反乱で立ち上がった群雄の中に楚の名将・項燕の血を引いている項梁(こうりょう)と項羽(こうう)も秦帝国に反旗を翻して独立。後に項梁が亡くなってしまったことがきっかけで項羽が跡を継ぐことになります。
彼は戦いを行えばほとんど無敵といっていいほどの戦上手でした。そんな彼に軍師がいたことを知っておりましたか。その軍師こそ項羽のパパ兼軍師役を務めていた范増という人物です。
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この記事の目次
天下乱れる
范増は若いときから一体何をやってきた人物かはっきりと分かってはおりません。それどころか史記や他の歴史書に彼の名前すら乗ってはいませんでした。その後天下は始皇帝によって統一され、彼は中華で何も残すこともなく乱世の終幕を迎えることになります。しかし70歳を迎えた時彼の人生を大きく変えるできことが。
それは始皇帝が亡くなったことと陳勝・呉広が秦帝国に反乱を起こしたことです。この反乱によって秦帝国に不満をもっていた6国の旧貴族や豪族達が一斉に反乱。この時に南方の楚で反乱を起こした人物がおりました。それは項梁と項羽でした。
彼らは反乱を起こして勢力を拡大し、薜の地で反乱を起こした諸将を集めて会議を開くことにします。
400キロ以上を踏破して、進言を行う
范増は項梁が薜の地で諸将を集めて会議を開くとの噂を聞くと従者を一人連れて薜へ向かうことにします。しかし范増がいた地から薜までなんと400キロ以上あり、当時彼は70歳の年齢でありました。現在の老人に東京から北へ400キロの地にある岩手県盛岡市まで歩いて行ってきてと頼んでも、まず無理でしょう。
途中でギブアップしてタクシーなどの乗り物を使うか、疲労で倒れてしまうかのどちらかだと思います。しかし范増はなんとこの400キロ踏破を成し遂げて薜の地へ到着するのです。一体どんな鍛え方をすれば70の爺様が400キロを踏破することができるのでしょうか。
そして彼は薜の地にいる項梁に会見を申込みます。
范増の進言とは
范増は項梁と会見すると旅の疲れを感じさせないしっかりとした口調で、「項梁殿。秦は天下統一する際、楚に対してかなり悪辣な事をしておりました。この事を知っている天下の豪族や知識層は楚に同情していることは間違えありません。
その証左として我が軍に多くの豪族達が参加している。また陳勝達は反乱を成功させて大勢力となっていた後なぜあんなにも早く章邯(しょうかん)に敗北してしまったのでしょうか。
それは陳勝自ら王を自称したからです。以上の事を踏まえて項梁殿には楚を再興してもらうことを第一に考えてもらい、楚の王を探して擁立させることを進言します。楚王を擁立していれば、項梁殿が楚を再興していくのだと思い、現在よりも多くの将兵があなた様の元へ集まることになり、一致団結して秦を討伐することができるでしょう。」と進言。
この進言を聞いた項梁は早速彼の提案を採用して、楚王を探索を開始します。その後、羊使いとして農業を営んでいた人物が楚王の孫であることが判明。彼は早速この羊使いを楚の王様として向かい入れて懐王(かいおう)として擁立します。こうして項梁は楚王擁立に成功して范増の進言通り、多くの諸将が項梁の元へ集結してきます。
その中には後年項羽と覇を競うことになる劉邦(りゅうほう)の姿や張良(ちょうりょう)の姿もありました。
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再び歴史の中に埋もれてしまう
范増(はんぞう)は優れた進言を行ったにも関わらず、その彼の行動はわかっていません。
一体何をしていたのか分かりかねますが、多分懐王の近くにいる項梁に仕えていたのは間違えないと考えます。その後項梁が章邯奇襲作戦によって討ち死にすると、項羽が彼の跡を継いで楚軍の総大将となります。
范増は何をやっていたのか
范増はその後項羽と共に趙救出参戦である鉅鹿(きょろく)の戦いに参加していたと考えられます。これも確証がないので何とも言えないですが、私の推測では懐王の近くに侍っていたであれば項羽軍の軍師として活躍できなかったでしょう。
その理由は、項羽は後に懐王を殺害しているからです。この時に懐王と共にいれば間違えなく殺害されていたでしょう。また項羽は戦功がないものや自分が気に入らない武将に対しては厳しすぎるくらいの態度で接しておりました。
しかし范増に対してはそのような態度で接していないことから項羽が項梁の跡をついでから、仕えていたのではないかと推測します。そして范増の名が再び現れることになるのは歴史に名高い鴻門の会になってからです。
関中王レースに参加する群雄
懐王は項梁が章邯によって殺害されると諸将を呼び出し「関中へ一番最初に入った者こそ、関中王の名にふさわしい。よって関中に一番入った者を関中王に任命する。」と諸将の前で高らかに宣言します。
この宣言を聞いて奮起したのが項羽と劉邦でした。しかし項羽は章邯軍に包囲されて滅亡寸前に追い込まれていた趙救援にむかわなくてはなりませんでした。
そしてライバルである劉邦はまっすぐ東にある関中盆地へ向かうように指示が出されます。その後項羽は章邯軍を打ち破って勝利を収めることに成功し関中へ急ぎますが、秦の国門として名高い函谷関(かんこくかん)には劉邦軍の旗がはためいておりました。
項羽は怒り狂い函谷関を閉じて籠城の構えを見せている劉邦軍へ猛攻をかけて、函谷関を強引に突破。劉邦軍の本陣である咸陽(かんよう)へ向かってひた走っていきます。
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謀略渦巻く「鴻門の会」その1
劉邦は項羽軍が函谷関を打ち破って咸陽へ向けて驀進していることを聞くと大いに驚き、すぐに使者を発します。項羽と范増は劉邦の使者から「劉邦は項羽殿と敵対する意思は全くありません。函谷関を閉めたのは、東方からくる賊軍から咸陽を守るためです。
項羽様と敵対する意思がないことを証明するためにすでに咸陽を出ております。また此度の失態を陳謝するため、あす早朝項羽殿の陣へ劉邦自ら謝りに来ると申しております。」と述べます。
この使者の言葉を聞いた項羽は何も言わずにただ頷くだけでした。范増は使者がいなくなると項羽へ「殿。劉邦が咸陽の美女や宝石、宝物に一切手をつけず立ち去ったのは、関中に住む秦人の人気を得るためでしょう。そこであすここに陳謝にやってきた劉邦を一度許し、親睦を兼ねて宴会を開きましょう。そして私が目配せを行った時に殺害してしまうべきと勘考します。」と進言。
この進言を聞いた項羽は劉邦を暗殺する決意を固めます。
念を入れる周到さ
范増は項羽に進言を行った後、項羽の従兄弟である項荘(こうそう)を呼び出して、
「あす劉邦がここへ謝罪しにやって来る。
その後宴会を催するのであるが、私の合図で劉邦の前で剣舞を舞ってくれないだろうか。そして剣舞を舞っている最中劉邦を刺殺して欲しい。」とお願いします。
項荘は大いに頷き「承知した。明日は私に任せて欲しい」と胸を叩いて自信満々の表情と口調で、快諾します。こうして劉邦暗殺を実行するべく、準備を整えて行くのでした。
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