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蜀漢の外戚・呉懿(ごい)は有能なのに地味で実は孔明に敬遠されていた?

2017年1月2日


 

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呉懿

 

蜀は人材が少ない割に、孔明が存命中には冷や飯を食っていた人がいます。呉懿(ごい)もそんな一人で、彼は妹が劉備(りゅうび)に嫁いでいる蜀漢における外戚の地位を占めます。しかし、高官なのに情報不足から伝が立てられませんでした。そんな呉懿、外戚故に孔明に敬遠されていた疑惑があるのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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元は陳留の人だが、劉備の入蜀時に投降

呉懿と劉備

 

呉懿は字を子遠(しえん)と言います。本当の名は呉壱(ごいち)であると正史では記録されています。ただ、はじさんでは一般で通用する呉懿として話を進めます。彼は陳留の出身でしたが、父を早く亡くしました。呉懿の父は劉焉(りゅうえん)と仲が良く、呉懿の一族は劉焉を頼りにして、西暦188年に劉焉が蜀に入る時に行動を共にしたようです。呉懿は生年が不詳ですが、劉焉の入蜀が188年、呉懿の没年が237年であるという事は入蜀時、まだ子供だったのかも知れません。やがて成長して、劉璋(りゅうしょう)が益州牧になると中郎将になり涪(ふ)で劉備を防ぎますが、勝てずに投降し劉備の配下になります。劉備は呉懿を護軍、討逆将軍に任命しました。西暦221年には、関中(陽平関)都督となっています。

 

妹が劉備の正室になり、呉懿は外戚となる

法正

 

呉懿の妹は、劉備に嫁いで穆(ぼく)皇后となります。元は劉焉の息子の劉瑁(りゅうぼう)に嫁ぎますが劉瑁は短命でした。劉瑁死後は未亡人として過ごしていましたが、劉備が入蜀すると、孫夫人が呉に帰ってしまい、正妻の地位が空位になります。そこで、法正(ほうせい)など益州の豪族が未亡人だった彼女を正室に勧め、劉備は同族である事を問題にしますが、結局押し切られ漢中王后に立てています。こうして、呉懿は外戚の地位に立つ事になります。劉備が崩御すると劉禅(りゅうぜん)が即位して彼女を皇太后としました。

 

呉懿の性格とは?

呉懿と魏延

 

季漢輔臣賛によると、呉懿の性格は以下のようです。

 

“呉壱は硬骨漢で、博愛の心をもち、弱きを率いて強敵を制圧し、危機に陥ることはなかった“

 

事実、呉懿は西暦230年、魏延(ぎえん)と共に南安郡に入り、魏将の費耀(ひよう)を破り亭侯に封じられています。あの人間の好き嫌いの激しい魏延と共同で戦える辺りは呉懿の優れた武将としての才能がうかがえます。それだけ出来る武将なら、もっと積極的な活躍があっていいのですが呉懿は蜀臣の中でも地味な立場に留まっています。それは、どうしてなのでしょうか?

 

推測 孔明は呉懿を嫌っていた?

呉懿と孔明

 

西暦228年の事、孔明は北伐に出陣して街亭を陥落させます。北伐には、魏延、そして呉懿という宿老が揃っていて群臣もこぞって両者を推していました。

 

基礎知識 馬謖03

 

ですが、ここで孔明は愛弟子で実績がない馬謖(ばしょく)をゴリ押しして、結果として街亭の敗戦を被っています。ここで魏延と併せて呉懿が群臣に推されているのは興味深いです。百戦錬磨の魏延を推す人が多いのは分るとしても、どうして、魏延よりは若く戦暦も充分ではない呉懿を街亭の守備につかせようとしたのでしょうか?

 

そこには、やはり、皇太后、呉氏の外戚である呉懿の声望が思った以上に大きく作用したのではないでしょうか。

 

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呉懿に手柄を立てさせると外戚の力が大きくなる事を孔明は恐れた

孔明

 

孔明の死から三年で、呉懿は死去していますが、孔明の死の直後には、待ちかねたかのように、呉懿は督漢中、車騎将軍、仮節、領雍州刺史済陽侯に進封されているのです。もちろん、孔明を失い、蜀軍の再編の中で呉懿の能力が必要だったという事はあるでしょうが、この出世ぶりを見ると、もし前線で目にみえる活躍しているようなら、もっと早い段階で地位を上げないと収拾がつかなくなっていたのではないでしょうか?

 

もしや孔明は、

 

「呉懿は外戚であり、大きな手柄を立てさせると宮中の影響力が大きくなるそうなっては私が思うように才配を奮えなくなる」

 

という危機意識があり、好き嫌いではなく警戒心から前線では、大きな仕事をさせないようにしていたのかも知れません。扱いづらい魏延とは別の理由で外戚であるが故に呉懿は敬遠され、大きな仕事を与えられなかったのです。

 

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外戚パワー呉懿の族弟として出世した呉班

宦官集合 

 

呉懿には族弟として呉班(ごはん)という人物がいました。父は、呉匡(ごきょ)と言い何進(かしん)大将軍の属官だった人物です。呉懿と同時期の188年に入蜀した劉焉に従い呉懿と同じく、劉備に嫁いだ穆皇后を経由して、劉焉、劉璋、さらに入蜀後の劉備との間でも外戚としての関係を強化します。彼は男伊達と剛毅さで知られた人物で、夷陵の戦いの他、孔明の北伐にも参加し、231年の第四次北伐では、魏延や高翔(こうしょう)と共に司馬懿(しばい)の軍勢を破り、敵の首級を三千、鎧を五千両、三千百の弩を獲得したそうです。彼も、劉備の代から出世を重ねて、孔明の没後に、驃騎将軍、仮節に至り、緜竹侯に封じられています。

 

面白いのは呉班の地位は、常に族兄の呉懿の地位に次いだという点で、やはり穆皇太后に近い分、呉懿が有利だったという事でしょうが、裏を返せば、呉懿を活躍させなければ、呉班の地位を上げる必要もないそういう理屈にならないでしょうか?

 

呉班は活用した孔明ですが、それは族兄の呉懿さえ押さえておけば、族弟の立場の呉班の地位を上げるのは難しいという事を抑えた腹黒い打算だったのかもしれません。そして、それを裏付けるように、呉班の地位も孔明没後には、族兄呉懿の地位のすぐ下に引き上げられるのです。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

蜀漢は、黄皓(こうこう)という宦官の害で滅亡に突き進みますが、意外にも、外戚の害というのは小さかったようです。呉氏の次には、張飛の娘二人が劉禅の妃になりますが、それで張氏が専横を振ったという話は聞きません。しかし、それは蜀漢において偶然外戚が善良であったのではなく、かなり警戒され水面下の抗争があって、そうなっていたと考えるとどうでしょうか?

 

或いは見えない所で、外戚呉氏と孔明との権力の引っ張り合いが存在していたのかも知れません。外戚の地位にありながら、呉懿や呉班の列伝がないのも、見えない権力闘争と関係していて都合が悪く、削除された結果という事になるのかも・・

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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