馬援(ばえん)とはどんな人?趙の三大天の一人趙奢を先祖に持ち子孫に馬超

2017年1月3日


 

光武帝

 

光武帝・劉秀(りゅうしゅう)の配下には煙台二十八将と呼ばれる優れた武将達がおりました。

しかしこの家臣団に選ばれなかったが名将の誉れ高い人物がいたのをご存知ですか。

その名を馬援(ばえん)といいます。

先祖はキングダムで活躍した廉頗と共に趙の三大天として名高い趙奢(ちょうしゃ)

 

五虎大将軍 馬超

 

そして子孫は蜀の五虎将軍として有名な涼州の錦・馬超(ばちょう)

先祖と子孫が歴史に名を残し、名将の血筋として申し分ない

武将・馬援を今回はご紹介したいと思います。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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四兄弟の末っ子で兄から将来を期待された人物

 

馬援は茂陵に住んでいた人物で、四兄弟の一番末っ子として誕生します。

彼の一族は戦国春秋時代の趙奢が先祖におりますが、なぜ趙氏を名乗らなかったのでしょうか。

それは長平で趙奢の息子が大敗北したことをきっかけで、自分達一族に罪が来ることを恐れ、

彼らは趙氏を捨てて趙奢が呼ばれていた馬服君の一字を取って馬氏を称することになります。

馬援は幼い時に両親を亡くなってしまいますが上に三人の兄達がおりました。

彼等は勉学に励み才能を開花し始めていた馬援を「援が一番才能を持っているだろう。

俺たちが支えなくてはダメだな」と決めて三人で彼を支えることにします。

 

 

 



牧畜にハマる

 

馬援はその後兄達の援助もあって学問に専念することになります。

そんなある日彼は詩文を学ぶことになりますが、

ルールに従わなくては詩文を作ることができないことに納得が行かず、

兄達の元から去って遠い辺境地へ移り住み牧畜を行って生計を立てていきます。

馬援は初めての牧畜に戸惑いながら作業を行っていきますが、

今までこのような生活をしたことがなかった為、見事に牧畜にはまってしまいます。

こうした生活を続けること数ヶ月兄である馬況から手紙が届きます。

その手紙には「お前には大きな才能がうもれており、

必ずその才能は開花して皆の役に立つ時が来るであろう。

今お前は自らの赴くままに動いているが、

今後も自らの意志に従って才能を開花させていくといいだろう」と

優しい言葉が詰まった手紙をもらいます。

この手紙を見た馬援は大いに感動し、牧畜に励んでいきます。

 

囚人を解き放ち罪人となるも・・・

罪人

 

馬援は牧畜をやめて就職。

彼が就職した役職は都の監督官でしたが、

ある時囚人を護送する命令を受けて裁判所へ送っていくことになります。

この囚人は重罪人で死刑は免れないことになっておりましたが、

彼と語る内に仲良くなり、この重罪人を裁判所へ護送しなくてはならないのに、

囚人を逃がしてしまいます。

そして彼も逃亡し潜伏生活を送ることになります。

その後恩赦が出たことによって彼は重罪人を逃がした罪が許されます。

しかし再び就職することをせずに逃亡地で再び牧畜と農業生活を行います。

馬援は牧畜と農業で大いに成功し、この地の実力者として慕われ多くの人達が彼の元を訪れます。

彼は集まっていた人々へ「男子は苦しい時に強い意志を持って事を成していき、

老いてなお盛んでなければならない。

またお金持ちになっても困っている人へ施しを行わなければただの守銭奴と同じである」

と語り、自らが蓄えたお金を困っている人々へ分け与え、

自らボロボロの衣服をまとって仕事を行っていきます。

この姿を見た近隣の村人達は大いに感動し、彼の元へ集っていくことになります。

 

隗囂の配下になる

 

馬援はその後王莽政権下で再び官吏につくことになります。

彼が次に就職した官職は漢中の太守です。

彼はこの地へ赴任して善政に勤めていきますが、

王莽(おうもう)が反乱軍である劉玄の軍勢によって滅ぼされると

雍州・涼州の実力者として君臨していた隗囂(かいごう)の配下に加わることになります。

隗囂は独立勢力として君臨しておりましたが、天下が蜀で独立している公孫述(こうそんじゅつ)と

河北を統一して勢いのある劉秀、このどちらの勢力に味方すればよいのか迷ってしまいます。

そこで彼は馬援に「蜀に割拠している公孫述がどのような人物であるか探ってきてもらいたい」と

命じます。

馬援は彼の命令に従って公孫述を見に蜀へ向かうことになります。

 

同郷の公孫述の尊大な態度に失望

 

馬援(ばえん)は公孫述(こうそんじゅつ)が首都としている成都へ向かいます。

彼は公孫述と同郷であった為、優遇されるであろうと期待を込めて会見に臨みますが、

実情は違いました。

彼は自らを皇帝であるかのように尊大な態度で彼に接し、皇帝と会見する時の礼儀を持って

会見しなくてはなりませんでした。

この公孫述の態度を見た馬援は大いに彼に失望し、会見が終わるとすぐに帰国。

そして隗囂(かいごう)へ「公孫述はダメです。調子に乗って自らを皇帝のように振舞っておりました。

あやつと同盟してはろくなことになりません。

私はこのまま劉秀の元へ行って彼の人を観察してきたいと思います。」と進言。

この進言を聞いた隗囂は彼を劉秀の元へ使いに出します。

 

謙遜している帝・劉秀に感動する

光武帝

 

馬援は帝に就任している劉秀の元へ向かいます。

彼は劉秀の本拠地である洛陽(らくよう)に到着するとすぐに彼に会見を申入れます。

劉秀は馬援を快く向かい入れ、会見を行います。

彼は馬援に「あなたは蜀の実力者である公孫述と涼州の大勢力である隗囂、

ふたりの偉大なる人物を見てきているが、

その二人に比べて器量も実力も劣っている私はあなたに会うことが恥ずかしい。」と謙遜。

この言葉を聞いた馬援は大いに彼に感動するも劉秀が明主であるのか試すために、

彼にあることを訪ねてみます。

 

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ガチ名君であった劉秀

光武帝劉秀part1 01 劉秀、陰麗華

 

馬援は劉秀へ「公孫述は自らを皇帝であるかのような振る舞いを行っており、

あのような態度を取る人物では、今後生き残っていくのは難しいでしょう。」と公孫述の人物評を

示してから「陛下。なぜあなた様は私が刺客でないと確信して、会見することにしたのでしょうか。」

と彼の心中を試すために質問します。

すると劉秀は大いに笑い出し「君は刺客ではないであろう。

もし刺客であればこの質問をしている最中に私の命はなくなっている。

あなたは昔の説客と同じような者ではないのでしょうか。」と述べます。

この発言を聞いた馬援は劉秀へ「天下は統一されておらず、

各地で帝を称する輩が出てきております。

しかし高祖・劉邦を凌駕する度量を持っているあなた様に出会い、

真の帝王とはこのような人物であることを思い知らされました。」と

思ったままの感情を彼に述べます。

彼は「そんな事はない」と再び謙遜しておりました。

だが馬援は(見知らぬ人物を信じて二人きりで会見するとは、この人物はガチで名君かも知れない。

彼の器量は間違えなくこの天下で一番の君主であろう)と確信を抱くことになります。

劉秀は彼を大いに気に入り、行幸の旅に馬援を従わせて行きます。

こうして数ヶ月彼と共に行動して事によって馬援はすっかり劉秀の魅力に魅せられてしまいます。

 

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隗囂へ進言

 

馬援は来歙(らいきゅう)と共に劉秀の元から帰還すると隗囂へ「ただ今戻りました。

劉秀の人柄を見てまいりましたが、彼に味方すれば大いに栄えること間違えないかと存じます。」と

説得。

隗囂は馬援の説得を聞いて来歙に自らの息子を預けて、

馬援を再度光武帝・劉秀の元へ遣わします。

こうして隗囂を味方にすることに成功した馬援は彼の元に戻ることをせずに、

劉秀の配下に加えてもらい、そのまま家臣となります。

 

隗囂に不信感を抱く

 

隗囂は光武帝と共に蜀に割拠していた公孫述討伐へ幾度か参加して、

武功を挙げていくことになります。

しかし彼は天下が統一されることを願ってなく、

光武帝の勢力と公孫述の勢力が互いに潰しあってくれることを本心では願っておりました。

劉秀は蜀討伐に本腰を入れるため、隗囂へ協力要請を行いますが彼はこれを拒否。

劉秀は隗囂と自分を対等の礼を持って接しておりましたが、

協力要請を拒否されたことと隗囂の本心を見抜いていたことから、

彼との関係は悪化していくことになっていきます。

馬援はこの間幾度も隗囂へ「仲良くするようにした方がいいのではないのでしょうか。」と

説得を続けておりましたが、隗囂は聞く耳を持ちませんでした、

 

隗囂の反乱

 

馬援(ばえん)は隗囂(かいごう)の元を去って光武帝・劉秀(りゅうしゅう)の臣下となります。

隗囂は馬援が裏切って劉秀に味方したことを大いに怒り、

劉秀と距離を取るようになって行きます。

劉秀も隗囂が公孫述討伐の協力要請に応じない姿勢を見て、彼を信用できなくなっておりました。

こうして両雄の溝は深まり、ついには回復不能な状態へ陥ってしまいます。

その後隗囂は公孫述と手を組んで劉秀に反乱を起こします。

 

隗囂陣営の切り崩し開始

 

馬援は隗囂が劉秀に反旗を翻した事を知ると劉秀の元へ行き

「私に軍勢を与えて頂けますでしょうか。必ず打ち破ってみせましょう」と提案。

劉秀は作戦が決まらなかった事と隗囂に仕えていた馬援なら

何とかするかも知れないと信じて、突騎と言われる精鋭騎馬隊を5千ほど与えて出撃を許します。

馬援は軍勢を率いて出撃すると、まず知り合いの武将達へ呼びかけて内応するように調略を開始。

彼の調略作戦は功を奏して何人か内応に応じる旨を伝えてきます。

その後彼の調略は進んでいき、

劉秀が軍勢を率いて到着した時には隗囂の勢力の半分以上が内応に応じている状態でした。

この結果隗囂は戦う前からボロボロでろくに戦もできないまま、劉秀軍に敗北してしまいます。

 

姉妹が反乱??

 

中国史では男性が反乱を起こすことは多々ありますが、

光武帝の時代に女性が反乱の当主となって漢帝国に反旗を翻します。

この反乱が起きたのは現在のベトナムを中心として勃発。

徴姉妹(ちょうしまい)は自らを女王と呼称して反乱を先導して、

65城を陥落させて大いに勢いづいていきます。

劉秀はこの反乱を鎮圧させるため、馬援を伏波将軍(ふくはしょうぐん)に任命して出陣させます。

馬援は2万の軍勢を率いて出陣して南越に到着。

しかし悪天候と疫病に苛まれながらも何とか反抗してくる賊軍を撃破。

その後この姉妹と浪泊(ろうはく)と呼ばれる地で決戦を開始することになります。

徴姉妹は大軍を持って攻撃を次々と仕掛けてきますが、

馬援は状況を的確に読んで攻撃を仕掛けた結果、ついに徴姉妹の軍勢を撃破して、

彼女らを捕縛し処断します。

こうして反乱の首謀者の首を漢の首都洛陽へ送った後、残存勢力討伐に力を傾けます。

この功績により馬援は侯の位を劉秀から授与されることになります、

 

矍鑠なるかなこの翁は

 

荊州の南方で割拠していた異民族が反乱を起こします。

この時劉尚(りゅうしょう)と言われる人物が反乱討伐軍を率いて攻撃を仕掛けていきますが、

敵軍の激しい攻撃によって討ち死にしてしまいます。

この報告を聞いた馬援は劉秀に「私が反乱討伐へ行きましょう」と進言します。

しかし劉秀は「ダメだ。馬援は老齢ではないか。」と言って反対。

馬援はこの時すでに60歳を超える年齢で、軍人としては退役している歳でした。

だが馬援は劉秀に食い下がり「私はまだ馬に乗ることもできます。見ていてください」と言って

軽々と馬に乗って疾駆し始めます。

この姿を見た劉秀は大笑いして「矍鑠(かくしゃく)なるかなこの翁は」と言って異民族討伐へ

出陣することを許します。

この劉秀が言った「矍鑠」という言葉はその後日本に伝わって、

老人で元気な者に対して使われることになります。

馬援は出陣の許可をもらうとすぐに軍勢を率いて異民族討伐へ向かいます。

 

賊軍を見事に撃破するも・・・・

 

馬援は臨郷(りんきょう)と言われる土地に駐屯していた賊軍を発見すると早速攻撃を開始。

馬援軍は楽々と賊軍を撃破して彼らの追撃に移り、下雋(げしゅん)と言われる土地に駐屯します。

この土地は二つの道に分かれており、

一つは敵地までの行軍は短いが悪路を踏破しなくてはなりません。

二つ目は平坦で輸送も簡単ではあるが、敵陣まで多くの日数を要する道程でした。

馬援は悪路でありながら敵陣に近い方を進軍経路として採用し、

全軍を出撃させます。

しかしこの道は険しく、行軍途中に暑さにやられて病にかかってしまう兵士や将校が出始めます。

馬援もこの暑さにやられてしまって病にかかってしまいます。

 

讒言によって死後、侯の位を剥奪される

 

馬援は病にかかっても敵の姿聴こえてくると知ると馬に乗って敵陣がある方を睨んでいたそうです。

しかし病によって衰弱していった体に暑さが勝てずになくなってしまいます。

馬援がなくなる前に劉秀は円第二十八将の一人である耿弇(こうえん)の息子から届いた手紙を

読みます。

すると馬援の軍略が間違えであることを指摘されており、

この手紙を読んだ劉秀は馬援を洛陽へ帰還させるように命令を出します。

だがこの使者が着く前に馬援戦死の報が届くことになります。

この報告を聞いた劉秀は大いに悲しみますが、劉秀の側近は馬援を憎んでいたこともあり、

馬援を讒言。

劉秀は馬援の讒言を大いに激怒し、彼に与えていた侯の位を剥奪し平民に落されてしまいます。

 

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三国志ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

馬援は老体になっても蜀の五虎将軍の黄忠みたいに戦場を暴れまわっていましたが、

なぜ彼は光武帝の精鋭将軍である煙台二十八将に選ばれることがなかったのでしょうか。

レンの推測では煙台二十八将のほとんどが光武帝劉秀と苦楽をともにしていた時期の

将軍です。

しかし馬援は仕える時期が遅かったのと上記でも説明いたしましたが、

劉秀が馬援を憎んでいたためではないでしょうか。

劉秀に憎まれていた馬援は死後、官位を全て剥奪されてしまいます。

彼の娘は劉秀の息子で二代目皇帝に就任する明帝へ嫁ぎます。

明帝の時代に煙台二十八将が彫られることになるのですが、

馬援はここに加わえることができませんでしたが、

馬皇后の尽力によって明帝は馬援の罪を晴らして元の爵位を与えます。

こうして馬援の罪は娘の力によって晴らされることになります。

 

「今回の後漢初期のお話はこれでおしまいにゃ。

次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。

それじゃまたにゃ~」

 

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袁術くんの成長日記

 

 

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