広告

【日中清廉潔白対決】北条泰時VS諸葛亮孔明

2017年1月15日


 

孔明

 

支配者たるもの、人並み以上に清廉潔白でないといけません。

そうでないと部下も人民も愛想を尽かして言う事を聞かないからです。

 

朝まで三国志 董卓

 

そんな事になれば、人を従わせるのに武力を使う羽目になり、

しまいには、オガッ!な展開になるのは董卓(とうたく)の失敗でも分る所です。

そこで、今回は日中、清廉潔白対決として、北条泰時と諸葛亮孔明を

対決させてみました。

 

関連記事:【新企画】朝まで三国志を開催!夜22時~朝6時までノンストップ特別企画!

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



少年時代から謙虚だった北条泰時

 

北条泰時(ほうじょうやすとき:1183~1242)は鎌倉幕府の二代執権

北条義時(よしとき)の庶子の長男として生まれます。

幼名は金剛(こんごう)いかにも堅そうです。

 

執権(しっけん)とは、本来、鎌倉幕府の将軍を補佐する役割ですが、

源氏の将軍が3代で途絶え京都からお飾りの将軍を迎えるようになると事実上、

幕府の政治を取り仕切るポストになっていきました。

 

そんな執権の息子に生まれた泰時、少年時代から謙虚さで知られます。

泰時が10歳の頃、将軍、源頼朝(みなもとのよりとも)の供をしている時、

御家人、多賀重行(たが・しげつら)が馬で泰時とすれ違い

下馬しなかった事が問題になりました。

 

10歳とはいえ、泰時は鎌倉幕府の要職にある北条氏の人間で

他の御家人とは格が違うと頼朝は主張したのです。

 

重行は食いさがり、自分は無礼を敢えてしたつもりはないし、

泰時も、それを責めなかった、泰時に確認して欲しいと抗弁します。

そこで頼朝が泰時を問いただすと、泰時も

「私は無礼を受けた事はありません、重行の言い分は正しい」と答えました。

 

頼朝は泰時が重行を庇い、重行は泰時の優しさを利用して言い逃れをしている

と考え、重行の領地を没収、一方、泰時の清廉さを褒めて刀を与えています。

真相はわかりませんが、僅か10歳の少年が年長者を庇うのは、なかなか

出来る事ではなく、泰時の少年時代からの謙虚さが分ります。

 

参考:北条泰時とはどんな人?自分の事でケンカはやめて!でも公の事には厳しい鎌倉幕府3代執権

 

 

強いて聴かれるまでは出しゃばらない孔明の謙虚さ

孔明 出師

 

諸葛亮孔明は謙虚な人柄であり、意見を求められるまでは、

自ら口を開くという事はあまりありませんでした。

孔明が劉備(りゅうび)に仕え始めの頃、劉備が仲良くしていた

劉表(りゅうひょう)の長男、劉琦(りゅうき)が

 

「私は父に疎んじられ、異母弟が荊州の主になるようです

私が災いを免れるにはどのようにしたらいいでしょう?」

 

と今後の身の振り方の助言を孔明に求めますが、

孔明は、家の揉め事は私には返答しかねますと

いつも答えませんでした。

 

そこで劉琦は、孔明を園遊に誘い、さりげなく高楼に昇ると、

家来にハシゴを外させました。

 

「ここには、私と貴方と二人しかいません、

誰にも迷惑は掛らない、これでも助言を頂けませんか?」

 

ここでようやく、孔明は口を開き、

 

「かつて晋の重耳(ちょうじ)は驪姫(りき)の姦計に気づき

晋を脱出して難を逃れ兄の申生(しんせい)は国に留まり姦計にかかり

死ぬ羽目になりました、あなたが、どちらを教訓になさるかです」と助言します。

 

劉琦は大いに悟り、ちょうど江夏城が黄祖(こうそ)の死後、主が不在である事を

利用して城を守ると称して江夏に赴き、後継者争いから抜け出し、

生命を全うする事になります。

 

なんだよ、それくらい、教えてあげればいいのに、、とも思いますが

人の家の事に軽々しく口を挟まないのも謙虚さなのです。

 

関連記事:日本人必見!楠木正成(くすのき・まさしげ)は孔明に並ぶと讃えられた忠義を尽くした武将

関連記事:孔明の最期の晩餐は一体何を食べていたの?

 

執権なのに、すさまじく質素だった泰時

 

北条泰時は、家督を相続しても、その領地の大半を兄弟に譲り、

自分は僅かな領地しか取りませんでした。

叔母にあたる北条政子が「もっと自分の領地を増やしなさい」と助言しても

「私は執権ですので、領地を多く持って贅沢をしていると思われてはいけません」

そう言って、きっぱり断っています。

 

また泰時は大飢饉が起きると、自らが保証人になって富農から米を買い、

貧乏人に与えて、来年豊作になれば元金だけ返済すればいいとします。

それでも、貧しい農民には、来年返済できない人間も多く、泰時は、

その場合には、元金の返済まで免除したので、最盛期には九千石という

米の借金を抱え、返済に苦しんだという事です。

九千石なら、米1200トンにもなります、僅かな領地しかない泰時には

大きな負担だった事でしょう。

 

こんな有様なので、泰時の屋敷はボロで、みすぼらしく誰が見ても、

当時の幕府の最高権力者の家には見えなかったそうです。

 

ここには、権力者は質素で無欲でないといけないという

泰時の生涯を貫いた哲学が存在したのです。

 

総資産が極めて少なかった諸葛亮孔明

孔明

 

孔明も泰時と同じく、質素倹約に勤めないといけない事情がありました。

彼は7年間に五回という北伐を行い魏に戦いを挑んでいます。

その費用は多額で、それを捻出する為に国庫を切り詰め、重税を課し

国民にも厳しい倹約を強いていたのです。

 

これで自分だけが贅沢をすれば暴動が起きかねませんので、

孔明は蓄財しないように気を配っていました。

 

彼の遺言では、「私には十五頃の痩せた土地と桑が800株あり、

身の回りの事は頂いた俸給で間にあうので、自分の死後に一族が

陛下に面倒をかける事はありません」

 

としており、事実、財産はそれだけしかなく、借金もありませんでした。

田が十五頃というのは、当時の金銭では15万銭に相当します。

現在のお金に換算しても5000万円に満たず、

もちろん一国の宰相としては驚異的に少ない資産です。

 

関連記事:【諸葛亮 vs 織田信長】戦争費用捻出法!あれやこれやの財源探し

関連記事:え?劉備は意外にも経済に明るい人物だった?孔明の北伐が継続できたのは劉備のおかげ!?

 

かなりの感激屋だった北条泰時

 

泰時は道理という言葉が大好きでした。

道理は四角張った杓子定規ではなく、人として生きていく当然の道という意味で、

正直を尊び嘘を嫌いました。

 

彼は御家人の訴訟を裁く、裁判官を担当していましたが、

ある時、若い御家人の兄弟の訴訟を担当しました。

 

兄は父が手放した領地を苦労して買い戻した親孝行な人でしたが、

父はどういうわけか、これを全て弟に相続させ兄には少しも与えませんでした。

 

そこで兄は弟と父を訴えて領地を分けてもらうように願いますが、

領地の相続の手続きは適正で、兄には勝ち目がありません。

泰時も何とか、兄の肩を持ちたいのですが法は曲げられず

いかんとも出来ませんでした。

 

負けてしまった兄は無領地で貧しい生活をしながら結婚しました。

泰時は不憫でならず、目をかけて、衣食の世話をしていましたが、

たまたま、九州に支配者のいない領地があり、泰時は喜んで、

これを兄の方に与えます。

 

兄は喜んで、「ここ数年、妻には貧しい暮らしをさせました

領地に入ったら、きっと腹一杯食わせてやります」と言います。

 

すると泰時は感激し

 

「あなたは若いのに実に御立派だ、

世の中には出世すると苦しい時に自分を支えた妻を忘れる者も多い

妻への感謝を忘れずにいるあなたは武士の鑑だ」

 

そうして、旅用の馬や鞍の世話までしたそうです。

 

また別の裁判の時、地頭と領家が土地の事で争いましたが、

領家の言い分を聞いた地頭は即座に「これは私が負けました」と負けを認めます。

 

すると泰時は、

 

「なんと見事な負けっぷりであろうか、普通は、どんなに自分が不利でも非を

認めないのが当たり前なのに、自分で敗訴を認めるとは、あなたは実に正直で

立派な人だ、長い間訴訟を裁いたが、こんな嬉しい事は初めてだよ」

 

そう言って、涙ぐんだと言います。

正直で潔い人を好んだ泰時の人柄が浮かび上がる逸話です。

 

手紙を出す度に涙ぐんでいる感激屋の孔明

孔明

 

孔明には冷酷に思える程の厳しい法律家の印象がありますが、

彼の書簡などを見ると、そうでもないようです。

 

例えば出師の表では、最期に劉備に恩義を受けた思い出を語り、

書きたい事は沢山ありますが、涙が溢れて書きすすめる事が出来ません

と書いていますし、北伐で輸送を担当しながら、補給を滞らせ、

北伐敗退の原因を造りながら言い逃れをして孔明に責任をなすりつけようとした

李厳(りげん)に対しては、これを厳しく処断して庶民に落としつつも、

一方では李厳の息子の李豊(りほう)に手紙を出して、

 

「君の父が、過ちを深く反省して謹慎し、

また君が、蔣琬と力を合わせて職務に励むなら父の復活も夢ではないぞ。

よいか、君は私の言葉をよく噛みしめて、心得違いをしないように

ああ、何だか泣けてきて、文字がよく見えないよ」

 

等と書いていて、また涙ぐんでいます。

李厳と孔明は劉備入蜀時からの同僚であり、こんな処分は本意では無いんだよ

心得違いをせずに再起を待って頑張れと父上に伝えてくれ、

そうとしか取れない内容になっています。

 

孔明

 

該当記事:甘過ぎるおかん孔明!部下に厳しく出来ない事実が発覚!

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

こうして見ると北条泰時と諸葛亮孔明は、質素で清廉である点、

感激屋な点、謙虚である点がとても似ています。

両者とも権力を握りながら、その権力基盤が不安定であり、

自らを厳しく律しないと国が立ち行かない事情もあって、

率先して人の手本となろうとしたのでしょう。

 

両者は死後も似ていて、孔明が武侯と呼ばれて庶民から崇められたのと同様に

泰時も死後、武家の聖人として崇められ後世の鑑とされています。

 

関連記事:これはひどい・・関羽は深刻な方向音痴だった?迷走する関羽の千里行

関連記事:そんなカバな!!赤兎馬はカバだった?関羽は野生のカバに乗って千里を走った?(HMR)

 

—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-三国志の雑学
-,