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もし荊州を趙雲に任せたらどうなったの?【ろひもと理穂if考察】

2017年1月24日


 

孔明君のジャングル探検01 孔明

 

蜀の諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)が提案した天下三分の計は、

西暦219年、劉備が漢中を制圧し、益州全土を手にしたことで現実のものとなりました。

劉備は「漢中」の名乗りをします。曹操の「魏王」に対抗したもので、

劉備は高祖劉邦と同じようにこの漢中から天下統一を成そうと夢見たのです。

劉備絶頂の時でした。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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天下三分の計

魯粛の生涯09 魯粛、孫権、孔明

 

しかし不吉な気配が東にはありました。西暦217年に、

呉と蜀の友好関係を繋いできた穏健派の魯粛が亡くなったのです。

後釜には孫策・周瑜と共に戦場で武功をあげてきた呂蒙が座りました。

その影響で、呉の主である孫権は領土拡大の方針を大きく変えてきます。

曹操に降伏の使者を送り、西に目を向けたのです。

孫権の目に映っていたのは、蜀の領地となっていた「荊州」だったのです。

 

趙雲の立ち位置

法正、夏侯淵

 

西暦219年は大きく荒れる年です。

劉備が漢中を制圧するにあたり魏の重臣・夏侯淵(かこうえん)を討ち取っています。

しかし蜀は呉に裏切られ、荊州の総司令官である関羽が敗戦し、

首を斬られ、荊州を失うことになります。

 

朱然と関羽

 

ちなみに魏では関羽の動きに呼応した魏諷がクーデターを起こすも失敗に終わり、処刑されています。

このとき、蜀の趙雲はどこにいたのでしょうか。

彼は、漢中制圧に貢献していました。

ちなみにこの漢中争奪戦のなかで、趙雲は抜群の武功を示し、

「子龍は一身これ胆なり」と賞賛される働きをしました。

一番の手柄をあげたのは夏侯淵を斬った黄忠(こうちゅう)でしたが、

趙雲の働きなくして漢中制圧は成し得なかったことでしょう。

 

関連記事:どうすれば関羽を死なせずにすんだのか?三国志ライターろひもと理穂が提案

関連記事:士仁(しじん)は何で関羽を裏切ったの?呉へ降伏してしまった蜀の武将

 

勢いに乗った劉備の前に落とし穴

朝まで三国志 劉備

 

細かく西暦219年の動きをおってみます。

漢中を制した劉備は勢いに乗ってさらに魏領に進軍していきます。

漢中の西にある上庸を孟達、劉封に攻め落とさせました。

同時に荊州の南・江陵にいる関羽を北上させて、漢水北岸の樊城を攻めたのです。

樊城を守っていたのは魏の重臣・曹仁(そうじん)でした。

曹操は名将・于禁を援軍に出し、さらに龐徳も出撃させます。

関羽は大雨で氾濫した漢水を巧みに使い、于禁を降伏させ、龐徳を斬ります。

曹操は慌てて名将・徐晃を樊城の北、南陽の宛に向かわせます。

樊城の近郊では関羽に呼応して反乱を起こす民・野盗などが急増。

魏は漢中を失ったばかりで、荊州北部も蜀に奪われる事態に陥ったのです。

しかし蜀の劉備は前ばかり見ていて、背後を疎かにしました。

そのために一転、ピンチを迎えることになります。

それはこれまで同盟を結んできた呉を見誤ったことです。

 

歴史if ここで趙雲に荊州を任せるのがグットタイミング!

五虎大将軍 趙雲

 

初めから関羽の代わりに趙雲に荊州を任せることはありえない話だと私は思います。

関羽と趙雲ではその重さが違うのです。曹操すらも関羽には一目置いていました。

名前が知れ渡っている関羽には州一帯を統治する統制力があります。

対して趙雲にはそのような経験がありません。

趙雲は戦闘のプロフェッショナルとして関羽と肩を並べることはあっても、

国の統治においては大きな差があったと思われます。

しかし、関羽が北上し、樊城を攻めたタイミングで、荊州南部の守りが手薄になります。

あくまでも呉が攻めてこないと見込んでの布陣だからです。

私はここで趙雲を投入すべきだったと思うのです。

つまり関羽の留守番のような仕事です。公安と江陵を守る士仁と麋芳の監督者として趙雲を置くのです。

おそらく劉備は関羽の北上が成功し、

さらに奥深く魏領に攻め入るために趙雲を漢中に待機させていたのでしょう。

漢中の北の長安を落とす手はずだったのかもしれません。

しかし、ここは一度足元を固める必要が蜀にはありました。

趙雲が関羽の代わりに江陵にいれば、例え呂蒙であっても落とすことは容易ではなかったはずです。

表立っての戦闘になれば趙雲が呂蒙を返り討ちにしたかもしれません。

その間に樊城を関羽は確実に落城させています。

樊城・襄陽を手に入れることで、蜀は呉を圧倒するような国力をもつようになるのです。

 

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三国志ライター ろひもと理穂の独り言

ろひもと理穂

 

一瞬の油断が劉備を奈落の底に落とすことになります。

そして蜀と呉がぶつかる「夷陵の戦い」という不毛な戦に移っていくのです。

もし、趙雲を関羽の留守番に置いていたら、

漢中に劉備張飛馬超諸葛亮孔明黄忠魏延。荊州北部に関羽

荊州南部に趙雲。という隙の無い布陣が置けます。

おそらく曹操は西の長安を切り捨てて、中原の守りに力を集中することでしょう。

そうなると長安に劉備・諸葛亮を置き、

西涼の制圧には馬超を向かわせ、洛陽に張飛や黄忠・魏延を向ける。

関羽はさらに南陽を攻め、許都にプレッシャーをかけることになります。

その間、呉には趙雲をもって無言の圧力をかけ続けることができるのです。

趙雲を戦闘に出さないのはもったいない話ですが、趙雲が統治や政治を学ぶ良いチャンスでもあります。

ここで趙雲にもひと回り大きく成長してもらうのです。

無論不安要素がないわけではありませんが……。

みなさんはいかが思いますでしょうか。

 

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ろひもと理穂

三国志は北方謙三先生の作品が一番好きです。 自分でも袁術主役で小説を執筆しています。ぜひこちらも気軽に読んでください! 好きな歴史人物: 曹操、蒲生氏郷

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