龐統の死後、その一族はどうなったの?魏に降った一族たちの数奇な運命

2017年1月25日


 

孔明 龐統 軍師

 

鳳雛(ほうすう)と呼ばれ、諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)と並ぶ

天下の大軍師として知られる龐統士元(ほうとうしげん)

 

龐統と的盧

 

劉備(りゅうび)の蜀獲りに多大な貢献をした彼ですが、

活躍を期待された最中、落鳳坡(らくほうは)で三十六歳の非業の最期を遂げます。

では、その後、龐統の一族は、どうなってしまったのでしょうか?

今回は知られざる龐統の死後の一族のドラマを紹介します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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龐統同様の毒舌を発揮して左遷されて死んだ息子龐宏

龐統2

 

余り家族の臭いがしない龐統ですが、実は子供が一人いました。

その名を龐宏巨師(ほうこう・きょし)と言います。

生没年不詳ですが、龐統死後に家督を継ぎました。

 

蜀漢の末期に活躍しましたが、父同様に飾り気がなく

率直な意見を好み、よく人物評を行っていたようです。

 

龐統 ガチャポン

 

しかし、人物の長所を褒めるのが基本だった父、龐統とは違い、

龐宏は、蜀漢で権力を握っていた陳祇を下に見て遠慮なく批判していた為に、

陳祇(ちんぎ)に疎まれて出世出来ず、涪陵(ふりょう)太守に左遷され、

その地で失意のうちに病死しました。

 

孔明が存命中であれば、人物批評程度で左遷は無かったかも知れませんが、

すでに腐敗しつつあった蜀漢では自由な発言は難しかったようです。

記録には、龐宏を継いだ人はいないので、ここで記録は途絶えています。

 

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龐統には弟がいた、魏に降伏して大守に上った龐林

龐統

 

龐統には、弟にあたる龐林(ほうりん)という人物がいました。

彼は、荊州の治中従事(じちゅうじゅうじ)に就いていましたが、

夷陵(いりょう)の戦いで、劉備と孫権(そんけん)が戦争状態になると、

黄権(こうけん)の配下として蜀軍として戦います。

しかし、戦争は劉備の大敗、黄権は逃れる事が出来ず、

やむなく、魏に投降し、龐林もそれに従いました。

 

曹丕(そうひ)は黄権同様に龐林も重用して列侯に封じて、

その階級は、鉅鹿(きょろく)太守にまで昇進したと言われています。

曹丕の引きがあるとはいえ、人材豊富な魏で大守に上るのは、

並大抵の事ではないので、龐林も兄程ではないにしても、

優れた才能を持っていたのでしょう。

 

魏に降った事で妻と再会できた龐林

馬良って何した人だっけ01 馬良

 

龐林の妻は、習禎(しゅうてい)という名士の妹でした。

習禎は、余り知られていませんが、軽妙洒脱な人物で、

その名声は龐統に次ぎ、あの白眉の馬良(ばりょう)よりも上だったようです。

 

しかし、龐林と妻が結婚してしばらく後に、荊州牧の劉琮(りゅうそう)は、

重臣、蔡瑁(さいぼう)の勧めで、あっさりと曹操(そうそう)に降伏してしまいます。

 

荊州は大混乱に陥り、大量の難民が発生します。

曹操には、徐州大虐殺の悪名があって恐れられていたのです。

離脱のドサクサで妻は荊州に取り残され、離ればなれになってしまいます。

 

龐林は、劉備に付いて襄陽から、南へ去り、やがて益州に渡ります。

孤立無援になった龐林の妻ですが、そのような中でも再婚もせず、

貞節を全うし、残された一人娘を十数年、女手一つで養育していました。

 

そして、西暦222年、夷陵の戦いで破れて、魏に投降した龐林と妻は、

実に十数年振りの劇的な再会を果たしたのです。

 

曹丕は、龐林の妻をあっぱれな貞女と褒め称え、

家具や衣服を与えて、その苦労に報いたという事です。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

kawauso 三国志

 

今回は、龐統の死後の一族について調べてみました。

息子の龐宏は、父に似て、毒舌家として育ち、実力者陳祇を批判して

出世を阻まれるなど、ああ、自由人だなと思います。

 

一方の龐林は、兄のような目立つ所はないものの、

数奇な運命により、黄権と共に魏に降る羽目になっても、

しっかりと重用され、鉅鹿太守に上るなどは、才能の一端が見えます。

 

そして、曹操の荊州侵攻によって生き別れになった妻と一人娘との

十数年ぶりの再会など、兄同様のドラマチックな人生を送っていると

言えるのかも知れませんね。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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