三国志というと、曹操(そうそう)や孫権(そんけん)、劉備(りゅうび)、
呂布(りょふ)のような群雄同士の戦いばかりがクローズアップされがちです。
しかし、事実の中国は、絶えず、周辺異民族の侵入に悩まされたのであり、
後漢の時代でも、匈奴(きょうど)、烏桓(うかん)、鮮卑(せんぴ)、氐(てい)、
羌(きょう)のような遊牧騎馬民族の侵攻と掠奪は絶えず起きていました。
辺境を統治する武将は、この厄介な遊牧民族を懐柔して
自国に被害を及ぼさないようにする必要があり、
それは時として国家の死活問題でした。
魏の地味武将、梁習(りょうしゅう)は、そんな困難な辺境の幷州を
長年統治して、異民族を手懐けた名官僚だったのです。
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この記事の目次
曹操の配下として、県長となるが・・
梁習子虞(りょうしゅう・しぐ)は、陳郡柘(せき)に生まれます。
当初は、郡の綱紀となりますが、曹操(そうそう)が司空になった時に召し出され、
漳(しょう)県長になり、乗氏(じょうし)、海西(かいせい)、
下邳令(かひれい)を累転しました。
ところが、この海西、淮浦(わいほ)を統治している頃、何があったか民衆が反乱、
身の危険を感じた、梁習は、都尉(とい)衛彌(えいや)と徐宣(じょせん)の所へ
行き、密かに逃亡させたので難を逃れました。
なかなか、かっこ悪いスタートですが、この失敗があったからこそ
梁習は、民心に気を配るようになったのでしょう。
曹操に見込まれて、刺史に昇進・・
その後、中央に戻った梁習は、西曹令史(せいそうれいし)となり中央に戻ります。
そこでたまたま、同僚の王思(おうし)が曹操の不興を買う事がありました。
曹操は、王思を呼び出して投獄してから殺そうとしますが、
王思は留守で、代わりに梁習が呼び出しに応じると、
まったくの人違いで投獄されてしまいます。
しかし、人違いと知っても、梁習は王思を庇い自分が罪を受けようとしたので、
事実を知った曹操は、義の人だと感心して梁習を刺史に昇進させます。
おもわぬ所で出世の糸口を掴んだ、と思いきや、これが、大きな試練の始まりでした。
そこはまさに世紀末、梁習、別府司馬&幷州の刺史になる
曹操が梁習に用意したのは、最近、袁紹(えんしょう)から分捕った
幷州(へいしゅう)でした、さらに梁習は、別府司馬も兼任しています。
別府司馬(べっぷしば)は、独立した兵団を率いている部隊長ですから、
そもそも、赴任する土地で何かあったら手持ちの武力で
なんとかせよという意味合いが含まれていました。
幷州は以前、高幹(こうかん)という男が暴れ回った影響が
色濃く残っていて、豪族達は自分を守る為に武装して独立勢力になり、
互いに村を奪い合う勢力争いをし、時に刺史がやってくると、
今度は、豪族同士が団結して抵抗し追い払います。
おまけに、その混乱に乗じて、匈奴や鮮卑の異民族が、
大挙し村を襲いまくる、不安定極まりない
北斗の拳的な世紀末状態だったのです。
うわあああ、、梁習、エライ所に来てしまいました。
梁習、必死の州運営を開始する・・
「俺は、農民反乱でさえ、抑えきれなかったのに
武装した豪族や異民族をどうすりゃいいんだ?」
梁習は、途方に暮れ曹操を恨みますが、やるしかありません。
まず、梁習は、暴れ回る豪族で武勇や知略のある人をピックアップします。
そして、自ら、出向いて褒めそやし、推挙して中央に送り込みます。
田舎豪族に取って、中央で役職を得るのは名誉なので喜んで幷州を離れます。
こうして、あらかたの豪傑を幷州から追い払うと、残された血の気の多い
民兵を徴兵して、魏の兵士として編成しなおしました。
そして、ダメ押しに、兵士や豪族の家族数万戸を人質として、
当時の魏の実質の首都であった鄴(ぎょう)に送り込みます。
これで、彼等は叛くと家族を殺されるので、従順に従うようになります。
こうして、梁習は、あらかたの武装豪族と気の荒い精兵を幷州から、
追放する事に成功、抵抗したり、命令に背いた兵は、
容赦なく討伐していき幷州刺史の威厳を見せつけます。
最凶の敵、鮮卑大人、育延が互市の開催を要求する
しかし、梁習の敵は、地元の豪族だけではありませんでした。
何度も大挙して侵攻し、掠奪を繰り返す異民族もいたのです。
中でも鮮卑族の大人(王)育延(いくえん)は、我が物顔で土地を荒らし、
この幷州の人々全てが恐れる存在でした。
ある時、育延は五千騎の手勢を引き連れて、梁習の所へ、
挨拶にやってきます。
「ガババババ!我々は物資が欲しい!州刺史殿には、
是非、互市(ごいち:異民族と漢族の市場)を開いて頂きたい、
この育延、この通りお願い申し上げる」
とウイグル獄長ばりの上から目線で要請しました。
「参ったぞ、許さなければ、後の恨みが恐ろしいし、
許せば、市の周辺で略奪が増えるかも知れない、、
やむを得ない、互市を許そう」
梁習、トラブルを起した鮮卑を処罰し育延を斬る
ところが、互市の準備をはじめた所でトラブルが発生します。
互市の警備兵が、鮮卑兵を捕えたのです。
それを見た鮮卑兵は、すぐに騎馬に乗り梁習を大勢で取り囲みました。
一触触発の状態ですが、負け犬根性がついている吏民は、
鮮卑兵を恐れて、皆、下を向いてしまっています。
梁習は、内心恐ろしかったのですが、腹を括りました。
そして、鮮卑兵を捕えた兵に質問したのです。
「この鮮卑はいかなる犯罪を犯したのか!」
「窃盗です、盗品はこちらです・・」
兵士が、確かに鮮卑兵が犯した罪の証拠を見せると、
梁習は、通訳を介して、鮮卑大人育延を呼びつけました。
育延が、悠々とやってくると、梁習は、大声で叱りつけます。
「見たか!貴様の配下は罪を犯した、私の兵は当然の事をしたのだ!
であるのに、貴様はどうして兵を動かし、我々を驚かすのだッ!」
育延は、梁習の気迫に押されてたじろきます。
その隙を逃さず、梁習は、剣を抜いて育延を斬り捨てました。
あまりの事に、鮮卑騎兵は怖気づき、報復もせずに解散します。
梁習の毅然とした態度を見た、遊牧民は、以後、
幷州に入りこんで掠奪する事が無くなりました。
曹操は梁習を褒め、真刺史とした・・
こうして、世紀末の有様だった幷州は、梁習により生まれ変わります。
梁習は、反乱者を討つ事、数千名、降伏してくる者、数万人、
匈奴王も鮮卑王も、梁習に頭を下げてやってくる状態になり、
農民は安心して、田畑を耕し人口も増えて、州は栄えました。
曹操は、予想以上の成果を挙げた梁習を褒め爵位を進めて、
関内侯(かんないこう)とし真刺史としています。
幷州の古老は、涙を流して言うには、
「長年、ここに住んでいるが、梁習様程の名刺史を見た事ない」
だったそうです。
三国志ライターkawausoの独り言
最初は、県の反乱さえ治められないダメダメだった梁習ですが、
曹操の計らいで、幷州に飛ばされるや、根性を据えて奮闘し、
とうとう、世紀末の様相だった州を平定していまいます。
梁習は、また清廉潔白な人で、二十数年も幷州にいるのに、
財産が出来るどころか、どんどん貧しくなり、
生活には困り、珍しい献上品一つ持っていない有様だったようです。
曹叡は、その態度を評して、別の刺史に与える何倍もの贈物を与え
その苦労を労ったと言います。
西暦230年、梁習は幷州で死去していますが、立派に辺境を治め
異民族の侵入を許さず、曹操の天下統一に貢献している事では、
地味とはいえ、どんな名将にも劣らぬ貢献であったと言えるでしょう。
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