劉備が建国した「蜀漢(しょくかん)」。
劉備だけがかんばって作った国ではなく、義兄弟であった張飛(ちょうひ)、
益州攻略戦の途中で亡くなってしまった龐統(ほうとう)、
劉備死後幼い君主を支えて魏と戦い続けた宰相・諸葛孔明達が力を尽くして建国した国ですが、
上記の人々の功績を蜀はずっと祀ることをしませんでした。
今回は張飛にスポットを当てて、彼が死後どのくらい経ってから祀られることになったのかを
メインにお話を進めていきたいと思います。
張飛死す
張飛は関羽が呉軍の裏切りによって亡くなったことを知ると劉備と共に呉へ復讐戦を行うべく、
自らの領地へ帰って兵士の訓練に明け暮れます。
彼は関羽を殺した呉を倒すべく毎日死人が出るほどの激しい訓練を行い、
兵の練度は蜀軍の中でも最高ランクの強さを誇っておりましたが、
将校達からは「将軍の訓練は厳しすぎて困る」と彼の激しい訓練に不満を持っている将校達が
多く存在しておりました。
ある訓練を行ったとき将校のひとりである張達・范疆(はんきょう)がミスをしてしまいます。
張飛は彼のミスに激怒して持っていたムチで徹底的に彼ら二人を痛めつけます。
ふたりの将校は辛うじて生き残り、治療を受けるとある決意を固めます。
彼らの決意は張飛を暗殺することです。
二人は張飛の本陣に夜中に忍び込み寝ているところを襲い、殺害してしまいます。
その後二人は彼の首を切り落として孫呉へ逃亡してしまうのです。
張飛死後40年ほど放置
関羽は呉軍に捕らえられて殺害されたあと、首を曹操の元へ送ります。
曹操は関羽の首をみて大いに落胆しますが彼を祀るべく墓を作り、
諸侯に匹敵する扱いで葬式を行います。
ですが、張飛は首を斬られて亡くなった後40年ほど彼を祀ることを蜀はしませんでした。
劉備も夷陵の戦いで孫呉に大敗北した後に亡くなってしまい、
孔明も劉禅を擁して政治に取り組んでいたため、彼を祀る暇がなかったのではないかと考えます。
死後40年経ってやっと諡が送られる
張飛は40年ほど放置プレイされてしまいます。
しかし蜀漢が魏軍の圧力を受けるようになって、
蜀漢が滅亡する三年ほど前になってやっと彼に諡(おくりな)が送られます。
張飛はこの時に桓侯(かんこう)と諡を送られ、祀られるようになります。
なんでこのような時間が経ってから彼を祀るようになったのでしょうか。
蜀滅亡を防いでもらうため
張飛を祀るようになったのは40年ほど経ってからですが、
蜀漢はこの時、危機的状況に陥っておりました。
姜維(きょうい)が毎年兵を率いて魏へ挑戦しておりましたが、
段谷の戦いで大敗したことがきっかけで蜀の国力は一気に低下。
また宦官である黄皓(こうこう)が政治の実権を握ったことで蜀の政権の政治は乱れてしまいます。
その結果、蜀の国力はどうしようもないほど低下してしまいます。
そのため蜀の上層部の人達が蜀を守ってもらうために張飛を祀ったのではないかと考えます。
この時張飛以外にも龐統や黄忠、馬超、関羽達にも諡が送られることになり、
祀られるようになります。
三国志ライター黒田レンの独り言
蜀建国の功労者達をずっと放置にしていては、
蜀の諸将もやる気ができないのではないのでしょうか。
また危機に瀕した時に彼らを祀っても助けてくれるわけがありません。
蜀の丞相であった孔明も死後数十年も放置プレイにされており、
彼が祀られたのはなんと蜀が滅亡するときであったそうです。
このように建国に貢献した人物達を祀ることをしない国では滅亡するのは当然ではないかと
レンは考えますが、皆様はどのようにお考えになりますか。
参考文献 講談社 中国の群雄~名将の戦略~関羽 立間祥介著など
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