三国志の事で、私達がどんなに努力しても分からない事、
それは英雄達がどんな顔をしていたのか?です。
こればっかりは、写真などない大昔ですから、窺い知る事は出来ません。
精々、史実にある、背が高い堂々とした体格、精悍な顔、デカイ耳?というような
ぼんやりとした断片情報を得る事が出来るのみです。
そうなると、取りあえず、豪傑は怖い顔に、軍師は端正な顔で微かに頬笑みを
湛えているという描写になっていく事になります。
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この記事の目次
曹操を生涯守った豪傑、許褚はどんな顔をしていたのか?
曹操(そうそう)を守った、二人のボディーガード、典韋(てんい)と
許褚(きょちょ)ですが、二人の容貌はかなり異なっていました。
魏志の典韋伝によると、典韋の容貌は以下のごとくです。
形貌魁梧 旅力過人 有志節任侠
つまり、典韋は凶悪な顔がまえをしていて
筋力も一般人を超越し仁義を重んじたとあります。
西暦197年、曹操が宛の張繍(ちょうしゅう)を降した時、
典韋は武器を持って曹操の側に立ち曹操が酒を注いだ相手を一々睨むので、
張繍軍の武将は余りの恐ろしさに誰も典韋をまともに見なかったとあります。
典韋は敵でさえ顔を見ない程に凶悪な顔をしていたようです。
そんな悪人顔の典韋の戦死後、ボディーガードを引き継いだ許褚ですから、
さぞかし、また凶悪な人相だったかと思いきや、そうでもないようなのです。
史実に残る許褚の姿とは?
魏志の許褚伝によると、許褚の容貌はこのようなものです。
長八尺餘 腰大十圍 容貌雄毅 勇力絶人
身長は184センチ、腰まわりが太く、立派な顔立ちで勇気に抜きんでる。
典韋に劣らない賛辞ですが、立派な顔がまえと太いお腹周りに、
一種のお相撲さん体型を思わせる描写です。
確かに背が高く、巨大ですが、見た目はぬいぐるみのようで、
典韋のように、周囲を威圧する顔の凄みは感じられません。
許褚は虎癡と呼ばれ、ぼんやりした顔だった!
また、許褚は発音の類似性から、仲間に虎癡(こち)と呼ばれたとあります。
癡とは、ぼんやりしている、或いは知恵の巡りが悪いという意味で、
虎のような怪力だがボーッとしている様子から名づけられました。
しかし、もし、許褚が凶悪な顔をしていれば、いくらなんでも
ぼんやりしているというあだ名はつかなかったでしょう。
そこには、恐らく顔つきも影響しており、体同様に顔も丸く、
愛嬌がある表情をしていたのではないでしょうか?
単馬会語で馬超は、許褚を見分けられなかった
西暦212年、西涼の馬超(ばちょう)が韓遂(かんすい)と共に叛いて
曹操が迎撃した事があります。
これを潼関(どうかん)の戦いといい、最初は馬超が有利だったのですが、
中盤は膠着し曹操は馬超に呼び掛けて、話し合いで戦争を納めようと馬上で会談しました。
このような会談形式を単馬会語(たんば・かいご)と言い、
原則武器を帯びず一対一で会談をするようです。
ただ、馬超は狡猾ですし、腕力にも自信があるので隙を見て曹操に飛びかかり、
首を落す機会を窺っていました。
曹操は万が一を考えて、許褚を一人だけ供につけて向かいます。
馬超は、曹操についてきた供が噂の許褚かと思い、曹操に
「虎侯はどちらですか?」と質問しました。
曹操は許褚を振りむいて「これが許褚だ」と紹介すると、許褚はここぞとばかりに
凄い顔で馬超を睨んだので、馬超は震えあがり曹操を襲うのを断念したようです。
何気ない会話ですが、馬超がわざわざ確認する程なので、普段の許褚は、
そこまで凶悪な人相をしているわけではなかったのでしょう。
三国志ライターkawausoの独り言
こうして見ると、典韋はその逸話から凶悪な顔と分りますが、
許褚は、「ぼんやり虎君」とあだ名されている事から見て、見た目は、
そんなに怖くなかったのではないかと考えられます。
顔つきは、ぼんやりでも許褚は勇猛で忠義に溢れ、
生涯に三度も曹操を救い、絶大な信頼を得ていました。
許褚は典韋と違い、気は優しくて力持ちというタイプだったのでしょう。
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