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【シミルボン】これは凄い!非常に我慢強い英雄、曹操

2017年3月6日


 

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シミルボン

※こちらの記事は「シミルボン」に配信されているコンテンツです。

 

三国志演義では、悪役である曹操(そうそう)は傍若無人で冷酷な独裁者という

イメージで語られやすい傾向があります。

確かに、徐州虐殺など、感情のままに苛烈な殺戮を行う場面もありますが、

一方で曹操は、尋常ではない我慢強さを発揮する事もあったのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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自分に叛いた毛翕と徐暉を許す

 

毛翕(もうきゅう)と徐暉(じょき)は、曹操の配下でしたが、

兗(えん)州で反乱が起きた時に曹操に叛きました。

曹操が足掛け2年で乱を鎮圧すると、二人は殺される事を恐れて

藏覇(ぞうは)という男気溢れる将軍の元へ逃げ込みます。

 

曹操は配下である藏覇に二人を殺して首を送るように命じますが藏覇は

 

「ボス、わしゃあ、身の危険を感じて匿ってくれと来たもんを、

殺す武器は持ってないんじゃあ勘弁してくれんかのぅ?」と助命を求めます。

 

それを聞いた曹操は、「藏覇こそ古の君子の美風を受け継ぐものだ」と感心し

二人を助命して、今まで通りのポストにつけました。

助命を嘆願した藏覇の顔を立て、恨みを水に流したという事ですね。

ちなみに、この藏覇も元は呂布に仕えていて、曹操に降伏した組の人です。

 

曹操が推挙した部下に叛かれるが許す

 

魏种(ぎちゅう)は、曹操が自ら民間から孝廉で推挙した人物でした。

当時は自分を引き上げてくれた人物は特別の存在で、その顔を潰すのは

あり得ない程の不道徳でした。

 

しかし、この魏种も、兗州の乱の時に曹操に叛きます。

「魏种だけは、何があっても叛かない」と公言していた曹操ですが

あっさり裏切られ激しく怒ってしまいます。

 

「許さん!南の越か北の胡にでも逃げない限り絶対に捕えてやる」

 

こうして、曹操は、199年、射犬(しゃけん)という城を落した時に

逃げていた魏种を捕まえます。

しかし、当時は、優秀な行政官僚が不足している時でしたので、

 

「お前などどうでもいいが、その才能が惜しい」

と吐き捨てると助命して河南の大守に任命しました。

 

自分の恩義を裏切った魏种でも、人材不足に直面した曹操は殺さずに助命し

重要なポストにつけたのです、中々我慢強いと言えます。

 

自分ばかりでなく祖父や父の悪口まで言った陳琳を許す

 

陳琳(ちんりん)は、曹操と袁紹(えんしょう)が天下分け目の官渡の戦いを

行っていた時に、袁紹に付き曹操を散々に罵倒した檄文を書いていました。

その内容というのは、大体、以下のようなものです。

 

「司空曹操の祖父は、宦官の親玉の曹騰(そうとう)仲間の宦官と結託して

賄賂を取り放題、悪逆無道な行いをして民を虐げる。

その養子の曹嵩(そうすう)は、曹騰の金で贅沢三昧、官位を金で買い

金ぴか趣味で、道徳心もなし、これまた血税をすする吸血鬼。

曹操なんぞは、曹騰のような臭い金玉無し野郎の孫であり、

最初から素行が悪く、ろくな事をしない、今でも無駄に策を弄して

世の中が乱れるのを楽しんでいる大悪党なり」

 

当時の社会では、父、そして祖父のような先祖の名誉を大事にします。

ましてや、それを辱められれば一命を擲って復讐する程です。

ただでさえ、そうなのに、自分の祖父をいかに宦官とはいえ、

他人に、臭い金玉無し男とバカにされれば怒髪天を突くというものです。

 

曹操は、袁紹との戦いに勝ち、ついに陳琳を捕えました。

早速、殺すのかと思いきや、曹操はこのように言います。

 

「俺の悪口なら良い、しかし、俺の所業に関係ない、

父や祖父の事まで悪く言うとは何事か?」

 

陳琳が恐縮していると、曹操はそれ以上何も言わず陳琳を配下に加えます。

この陳琳は名文家であり、後に建安の七子と呼ばれる曹魏の文化サロンの

中心的な人物になります、曹操はその詩文の才能を惜しみ助命したのです。

 

息子や従兄弟やボディーガードを殺した張繍を許す

 

西暦196年、曹操は荊州の宛を攻めて、張繍(ちょうしゅう)を降します。

しかし、その後、張繍は曹操に反目し、やがて謀反を起こしました。

ここには、張繍の軍師、賈詡(かく)も関与しており、曹操は歴史的惨敗を喫し、

長男の曹昂(そうこう)、従兄弟の曹安民(そうあんみん)ボディーガードの

典韋(てんい)を失い、自身も腕に矢傷を負うような重傷を負いました。

 

その後も何度か戦いますが、張繍は手ごわく降す事が出来ず、

曹操にとって張繍は息子や部下のにっくき仇になります。

 

ところが、二年後、曹操と袁紹が対立すると、張繍は賈詡と共に、

曹操に降伏してきました。

これは軍師の賈詡が、曹操は今、袁紹と戦う為に味方を必要としているから、

今降れば決して殺される事は無いと張繍に助言したからです。

 

普通なら、息子や部下の仇、直ちに捕えて処刑する所ですが、

曹操は逆に自ら出迎え、労いの言葉を掛けて高い位に就けました。

恨みを忘れたわけではありませんが、それより袁紹に勝つ事を優先したのです。

 

これは、理屈としては分っても、簡単に実行できる事ではないでしょう。

曹操の我慢強さは、中国の並みいる英雄でもピカイチだと思います。

 

 

参考文献:曹操 著者: 陳 舜臣 出版社: 中央公論新社

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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