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死刑か肉刑か?魏の宮廷を二分した刑罰論争

2017年3月15日


 

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三国志の時代、刑罰としての肉刑は禁止されていました。

肉刑とは、足を切り落としたり、鼻や耳を削ぐような肉体を切り落とす残酷な刑罰です。

しかし、肉刑が減るかわりに、死刑が適用されるケースが増えるという問題点が生じます。

「生命を奪う死刑か?命は助ける肉刑を施すのか?」で魏では、それぞれの派に分れて

大きな刑罰論争が発生していたのです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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曹操、肉刑廃止の問題点を提議する

 

古来、中国では肉刑がよく行われていました。

戦国時代の著名な兵法家の孫臏(そんびん)もライバルの龐涓(ほうけん)により

両足を切断されるという肉刑を受けています。

 

また、当時は、片足を切断した元罪人を門番として使うケースもありました。

理由は、片足では満足に逃げる事も出来ないので、最期まで敵から門を守って

戦うという、これまた、ゾッとしない理由なのですが・・

 

ですが、人間の体の一部を切除するという、あまりにも残酷な肉刑を問題視した

前漢の文帝(ぶんてい)が、これを刑罰としては全面的に廃止します。

ところが、そうなると、刑罰の真ん中を規定していた肉刑が消滅し、上は死刑、

下は懲役刑になってしまった結果、死刑に相当するような罪ではない刑罰も

懲役刑としては軽すぎるという判断から、死刑になってしまう現象が起きていました。

 

 

そのような事から、みだりに罪人の命を奪う死刑を増やすより、肉刑を復活させ

死刑の数を減らした方がいいと考える人も多くなり、曹操(そうそう)

そのような理由から尚書令の荀彧(じゅんいく)に命じて、肉刑についての

群臣の意見を取りまとめる事にしました。

 

なんだかんだで曹操、トップダウンで決めず、皆で論議する辺りは、

意外に民主的な所があります。

 

案の定、意見は真っ二つに分かれる

 

荀彧が意見を取りまとめた所、肉刑復活を唱える群臣も多かったのですが、

この時は、孔融(こうゆう)が断固として反対して復活を阻止しました。

 

「肉刑により身体を損ねた者は、むしろ絶望し更生する余地が無くなる

それに親から貰った体に傷をつけるなど孝に反している」

 

孔融の主張は、概ね、このようなものでした。

確かに孔融の意見にも一理あるので、論争は決着しませんでした。

 

関連記事:孔融(こうゆう)とはどんな人?孔子の子孫だが、曹操を批判して身を亡ぼした学者

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曹丕・曹叡の時代になると、再び肉刑論争が湧きおこる

 

曹丕(そうひ)曹叡(そうえい)の時代になると魏王朝の方針として刑罰を

どのようにしていくか?という事になり、肉刑論争が発生する事になります。

 

肉刑賛成論者には、陳羣(ちんぐん)、鐘繇(しょうよう)がいて、反対論者には、

王修(おうしゅう)や王朗(おうろう)がいました。

 

肉刑賛成論者は、肉刑を廃止した事で死刑が増えているという事や、肉刑を施す事で

罪人の再犯を確実に防止できるし、肉刑を施された罪人を見る事で他の人間は

法を侵す事を恐れるので、抑止力になるという意見を出します。

 

それに対して、犯罪の抑止になるという考えに肉刑反対派の夏侯玄(かこうげん)

反発しました。

 

「まったく、道理に合わない意見だ、そもそも、政治は犯罪者を出さないように

徳と寛容を前提として民を導くべきであり犯罪者にむごい刑罰を科して、

それにより恐怖心を起こさせて犯罪を防止するなど本末転倒ではないか?

もちろん、死刑がみだりに出されるのも問題で、罪人の態度をしっかりと見極めて、

改心する余地がない者だけを死刑にすべきである」

このように、肉刑賛成派も肉刑反対派も、一生懸命に議論を展開していたのです。

 

肉刑復活はならず、その理由は・・

 

その後、西晋の時代に入っても、思い出したように肉刑復活の提議が持ちあがりますが

議論は白熱するものの、反対派の抵抗が根強く、結局再開には至りませんでした。

 

大きな理由としては、死刑を減らせるとはいえ、やはり肉刑は酷いという点、

さらには、まだ統一がなされていない状態で肉刑を復活すると、それを恐れた民衆が

蜀や呉、或いは北朝側に大量に逃げてしまうのではないか?という懸念がありました。

 

肉刑反対論者にも、部分的な復活を容認する向きもありましたが、全面的な解禁を

求める賛成派とは足並みが合わず、結果、時期尚早として解禁を見送る勢力が増え、

やかましく議論する割には、肉刑賛成派は、大きな勢力にはならなかったようです。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

その後、中国では北魏が死刑と懲役刑の中間の刑罰として流罪を制定した事で、

一時、論争が下火になります。

その後も一時、肉刑が復活しては廃止になり、北宋時代に再び議題になるなど

何度か論争が続きますが、結局、全面解禁はされていません。

 

もっとも、それは一般の犯罪であり、宦官を造る為の宮刑は肉刑ではないとして

存続していましたし、国家転覆のような重大な犯罪では、受刑者の体の肉を少しずつ

切り刻み、死に至らせる凌遅(りょうち)刑などもあったので、

いついかなる場合も禁止されたわけではありませんけどね。

 

 

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—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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