蜀の二代目皇帝・劉禅とケンシロウの共通点

2017年4月4日


 

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ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく

「ろひもと理穂の三国志占いの館」のコーナーです。

 

仁徳の君主として有名な劉備の子が今回の主役・劉禅(りゅうぜん)です。

劉備は蜀漢を建国するまでの期間、大変な苦労をしてきています。

それに従った義弟の関羽や張飛も同じです。

 

 

そんな劉備が「髀肉之嘆」をこぼしたのが、

荊州の劉表の客将として新野にいた頃になります。(運動不足で肥えてきたのを嘆いた)

 

 

ここで劉備は運命的な出会いをします。

劉備は軍師として諸葛亮孔明を得たのです。

そして劉禅は劉備の人生の岐路となったこの年に生まれています。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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劉禅を占う

 

三国志演義では母親の甘氏が妊娠中に

北斗七星を飲み込む夢を見たことから「阿斗」という幼名をつけられます。

北斗七星といえば、北斗神拳の伝承者ケンシロウを連想しますね。

劉禅も同じように正義のために戦うことを宿命づけられているのでしょうか。

その占いが九分の確率で当たるといわれる

自称:占い師の私が彼の運命を占ってみましょう。

フムフム・・・・・フムフム・・・・・・なんと!

出ました!!「戦場は大凶」「龍は吉」「軍師の話を鵜呑みにしていれば大吉」です!!

 

戦場での劉禅

 

劉禅が戦場に登場したのは西暦208年のことになります。

なんと1歳の頃です。

しかも相手は英雄・曹操。劉禅側は兵力においても圧倒的に不利な状態です。

父親の劉備はとにかく逃げます。逃げることにおいて劉備の右に出る者はいません。

妻子のことなど構わずに逃げます。

戦場と化した当陽県長坂に劉禅や母親の甘氏は取り残されてしまいます。

周囲は阿鼻叫喚の大混乱。

 

 

そこに登場したのが愛馬・白龍にまたがる劉備配下の趙雲子龍です。

趙雲は赤子の劉禅を懐に抱いて戦場を駆け抜けます。

劉禅は九死に一生を得ました。そして二度と戦場には出るまいと決心するのです。

 

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戦場はトラウマ

 

なんて1歳の赤ちゃんが決心するわけもないのですが、

それ以降、劉禅は戦場に出ることがありません。

青年になっても、成人しても、親となってもです。

長坂の戦いがトラウマになったのでしょうか。それとも占いを信じたのか。

三国志の他の勢力を見てみると、呉の孫権は合肥の戦場に何度も出陣しています。

 

 

魏の文帝(曹丕)も袁紹との戦いや孫権との戦いなど幾多の戦場を渡り歩いてきています。

その子の明帝(曹叡)にしたって合肥に親征しているのです。

明帝は劉禅より1つか3つほど年上なだけです。年齢はそれほど変わりません。

しかも劉禅の蜀よりも遥かな巨大な国の皇帝です。

それでも国の大事と考えたときには出陣しています。

 

最後まで出陣せず

 

さすがに蜀が滅亡するときには少しは戦っただろう。

と想像されるひとも多いと思いますが、なんとそのときもまったく抵抗せずに降伏しています。

あれだけ諸葛亮孔明が魏の討伐のために何度も出陣しているのに、

劉禅は戦場で苦心することなく魏の軍門に下ったわけです。

まさに北斗神拳の伝承者ケンシロウとは対照的ですね。

ケンシロウは毎週戦っていましたが、劉禅は一生で一度も戦ったことがないのです。

この戦乱の時代において一度も戦ったことがないなんて・・・・・・

どこまで過保護に育てられているんだ。

豊臣秀頼もこんな感じだった気がするな。

 

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三国志ライター ろひもと理穂の独り言

 

劉禅が暗愚な君主なのかどうかには触れていません。

そこはいずれまた。

今回は劉禅がまったく戦場に出ていないことをクローズアップしてみました。

まあ、皇帝らしいといえば皇帝らしいのでしょうが。

時代が時代だからなー。少しは戦ってほしかった。

本当に戦場に出たら死にますよって占われていたのかもしれませんね。

で、劉禅は凄く占いを信じるひとだったとか。

 

皆さんはどうお考えですか。

 

 

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ろひもと理穂

三国志は北方謙三先生の作品が一番好きです。 自分でも袁術主役で小説を執筆しています。ぜひこちらも気軽に読んでください! 好きな歴史人物: 曹操、蒲生氏郷

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