小さな英雄、曹操(そうそう)、その大人物ぶりを表わす逸話として、官渡の戦いで
袁紹(えんしょう)と内応した部下の手紙を押収してもその内容を確認する事なく
見なかった事にして焼き捨て、内応の罪を不問にするなど、カッコイイ所があります。
しかし、この逸話、実は真実ではなく、曹操はパフォーマンスをしたに過ぎない、
という、やや、みみっちい裏話があるのです。
前回記事:曹操を好きになってはいけない6つの理由
この記事の目次
曹操、部下の袁紹への内応の手紙を焼か・・ずに取っておく
西暦200年、官渡の戦いを劇的な食糧庫、烏巣焼き討ちで乗り切った曹操。
兵糧を失った袁紹軍は潮が引くように冀州に引き上げていきますが、
ギリギリ辛勝の曹操軍に、それを追撃する力はありませんでした。
慌てていた袁紹軍は、機密の書簡も放り出して逃げて行ったので、曹操の手元には、
自軍の武将が袁紹の寝返りに応じた書簡までが残される事になりました。
心辺りがある武将は内心気が気ではありませんが、曹操は、その書簡を見ずに
「いやいや、わしだって負けると思っていたのだ、諸君なら尚更不安だろう」
と言いつつ、書簡に火をつけて焼き払ったと言うのです。
いかにも天下の三分の二を制覇した英雄に相応しい度量のように見えます。
ところが、実は、曹操のこの行為はパフォーマンスに過ぎませんでした。
三国志 魏志 趙儼伝に引く魏略に曹操の嘘が記録されていた・・
実は、曹操が部下の寝返りの手紙を見ていないというのは嘘でした。
その証拠は、三国志魏志 趙儼(ちょうげん)伝に引く魏略の以下の記述です。
曹操が袁紹の記録所を捜査させたところ、李通の文書だけが見当たらなかったので
「李通だけは本当の忠義者じゃ!」と曹操は感激した。
さあさあ、大変な事になってしまいました。
曹操、部下の寝返りの手紙を見ていないどころか、しっかりガン見した上に、
李通だけは内応していない、忠義なヤツと感激しているのです。
手紙を焼くのは光武帝のパクリだった・・つまり
そもそも、部下が敵に内応した証拠の手紙を焼くというのは、
曹操のオリジナルではありませんで、光武帝劉秀(りゅうしゅう)が
邯鄲(かんたん)を落して王郎(おうろう)を誅殺した時に、
王郎に通じていた部下の手紙数千通を焼き捨てた故事を真似したものです。
こうなると、こういう推測が成り立ちます。
①曹操部下の寝返りの文書を発見→
②わしを裏切りおって許せん→
③しかし、今、問題にすると部下が袁紹に寝返る→
④よし、見なかった事にしよう→
⑤そうじゃ光武帝の故事じゃ!
曹操の脳裏に光武帝の故事が甦り、一度は見た書簡を見なかった事にし
もう一度、袋につめて諸将の前に持ち出して、見なかった事にして
燃やしてしまったのです。
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その後、執念深く、内応者を排除していった曹操
曹操の対応は、みみっちくても必要なパフォーマンスでした。
袁紹は負けたとはいえ、攻めてきた側であり、曹操は防戦一方だったのです。
もし、ここで書簡を見て、内応者を確定したと宣言したら、誅殺される前に
袁紹に寝返ろうと大挙して、冀州に離脱したかも知れません。
ここは、みみっちくても「見てません」を押しとおし、その実、内容は把握して、
政権が安定していくに従い、内応者を一人、また一人と別件で誅殺していく
或いは、曹操はそういう事をしたのかも知れません。
三国志ライターkawausoの独り言
曹操は、強かな一面を持っていますから、一方で大物ぶりながら、
一方では、執念深く、自分を裏切っていた部下をマークして折を見て排除した
というような事は大いにあり得る事ではないか?などと思います。
しかし、李通以外は、皆んな内応していたとしたら、そりゃあ、手紙見たぞとは
言えないでしょうね、下手すりゃ、その日の内に謀反が起きるかも?ですもんね。
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—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—