ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく「ろひもと理穂の三国志・朝鮮半島の歴史」のコーナーです。
三国志「正史」を編纂した陳寿に「ずばぬけた才能と見識」と絶賛されたのが、魏の毌丘倹(かんきゅうけん・ぶきゅうけん)です。明帝(曹叡)に可愛がられ、出世していきます。荊州の刺史→幽州の刺史→豫州の刺史→揚州の刺史と歴任しました。
凄い転勤ぶりですね。彼の功績はなんといっても朝鮮半島北部の鎮圧です。現代では北朝鮮の動向が大きな問題になっていますが、アメリカや中国が何をしようともなかなか解決しません。おかげで地政学リスクが生じてドル安になる始末です。
4月の1週目には米中首脳会議がありますがどのようになるのでしょうか(執筆時はまだ4月3日ですのでわかりません)。トランプ大統領がまた余計なことを言いそうですね。と、いうことで今回は朝鮮半島問題に詳しい毌丘倹の活躍に注目していきましょう。
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遼東の支配者・公孫氏と高句麗
西暦238年、遼東を支配していた公孫淵(こうそんえん)を司馬懿(しばい)が打ち破ります。この年はちょうど邪馬台国から卑弥呼の使者が訪れていたとされています。燕王を称する公孫淵を滅ぼすのに魏に協力したのが高句麗です。
高句麗は以前に公孫氏に負けて服従していました。そのとき都を丸都(現在の中国と北朝鮮の国境付近)に移しています。しばらくはおとなしくしていましたが、公孫淵が滅ぶと高句麗は盛んに魏の領土を侵略するようになりました。高句麗は以前に呉に朝貢した経歴があります。魏としてはもはや許してはおけない存在になりました。そこで高句麗討伐を任されたのが毌丘倹です。
高句麗との戦い
毌丘倹は公孫淵の討伐に武功があり、安邑侯となっています。司馬懿は公孫淵を討つと凱旋しましたが、毌丘倹は遼東に留まり、さらなる異民族の平定を任されます。
西暦246年2月に毌丘倹は高句麗の都・丸都を攻めて陥落させました。(西暦244年という説もあります。この2年の開きはどこからくるのでしょうか)毌丘倹はさらに部下の王頎に追撃を命じます。高句麗の王は第11代目の東川王(宮)です。東川王は沃沮を南に逃げます。
さらに東川王の腹心が魏に偽りの投降をし、敵方を混乱させて王の逃亡を助けました。高句麗はこうして滅亡を回避したのです。毌丘倹もこれ以上の追撃を諦めます。ちなみに高句麗は第15代美川王のときに復讐に転じました。三国志では晋がすでに天下を統一していますが、西暦313年、高句麗はその晋を攻めて楽浪郡を占領しています。
司馬師への反乱
話は戻りますが、高句麗を撃退した後、毌丘倹は魏の重臣として都督となります。そして西暦252年、鎮南将軍・豫州刺史として、呉の皇帝・孫権の死に乗じて攻め込むのです。ここは敵の総大将・諸葛恪の奮戦によって敗北します。
しかし西暦253年、今度は合肥に攻め込んできた諸葛恪を迎撃し、さらに追撃して成果をあげました。この年に諸葛恪は呉国内で誅殺されています。そして毌丘倹もまた司馬氏の専横に対して反乱を起こして征伐され、西暦255年に亡くなりました。毌丘倹の反乱にショックを受けた司馬師もまた毌丘倹征伐後の同年に病没しています。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
三国志の後半に登場するのであまり馴染みのない毌丘倹ですが、こうしてみるとかなりの活躍をしているのです。朝鮮半島の南部まで平定できればさらに注目を集めていたのでしょうが、呉の孫権がいたために呼び戻されて、戦力として期待されています。
それがなければ毌丘倹の兵は倭まで攻め寄せていたかもしれませんね。日本の歴史は変わっていたかも!って考えると呉の存続に感謝です。皆さんはどうお考えですか。
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