袁紹軍の二大軍師と言えば田豊(でんほう)と沮授(そじゅ)が当てはまるのではないのでしょうか。
ふたりは袁紹(えんしょう)に仕えた当初は献策を行えばすぐに採用されていたのですが、
袁紹と曹操が対立し始めるとふたりの献策は採用されなくなってきます。
そして官渡の戦いで袁紹軍は大敗北してしまうのですが、
ふたりの軍師は何度も袁紹に対して曹操と戦うことに反対意見を述べております。
今回はそんなふたりがどれだけ袁紹に対して反対意見を述べたのかを
ご紹介していきたいと思います。
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顔良活用に反対意見を述べるも・・・・
沮授は袁紹が南下して曹操軍と戦った初戦である白馬の戦いに対して、
まず反対意見を述べております。
白馬の戦いそのものに反対意見を述べているのではなく、
白馬攻撃軍の将軍として任命した顔良(がんりょう)を活用することに対して
反対意見を述べております。
沮授は「顔良将軍は袁紹軍きっての武勇を持っています。
しかし性格に問題があり、彼一人に白馬攻撃軍を任せるのは良くないと考えます。」と
反対意見を述べます。
だが袁紹は沮授の意見を採用することなく白馬攻撃軍を顔良に託します。
その結果顔良は討ち取られる結末を迎えることになり白馬を取ることに成功するのですが、
袁紹軍の士気は大いに低下してしまいます。
曹操との戦い方を提案するも・・・・。
沮授は顔良・文醜(ぶんしゅう)二人が討ち取られてしまった事を知ると再び袁紹に進言します。
彼は袁紹へ「河北には兵糧が潤沢に有り、経済力も曹操が有している土地と比べれば、
我が方が圧倒的に有利です。
しかし曹操軍の方が兵士は強く短期決戦を行う場合には曹操軍の方が有利でしょう。
そのため一度領土へ戻って今受けた傷を癒して時間をかけて、
曹操軍と戦えば我が軍の勝利は揺るぎないでしょう」と提案。
だが袁紹は沮授の提案を却下して曹操が篭城している官渡城へ猛攻をかけていくことになります。
結果は皆さんが知っているとおり袁紹軍の大敗に終わってしまいます。
二年以内に勝利することができる田豊の進言も・・・・
田豊は袁紹が大軍を南下させて曹操軍と決戦しようと決断した時に反対意見を述べます。
彼は曹操に絶対勝つことのできる作戦を提案して袁紹の南下をやめさせようとしておりました。
田豊の必勝の作戦とはどのような物なのでしょうか。
田豊曰く「曹操は策略に秀でており兵士が我が方よりも少なくても決して、
油断してはならない敵です。
そのため曹操とは短期決戦で決着を着けるのではなくて、
持久戦に持ち込むのが一番いいでしょう。
袁紹様は各地の群雄と手を組んで曹操軍を攻撃させ、
我らは少数の奇襲部隊を編成して曹操軍の領土を犯し続けるのが一番いいでしょう。
東に奇襲部隊を編成して攻撃させ曹操軍が東に援軍を送ったならば
西へ奇襲部隊を編成し攻撃。西に援軍を繰り出してきたならば再度東へ攻撃を行い、
曹操軍を疲弊させることが肝要です。
このように攻撃を繰り出していけば、
領内の民衆達は怯えて農業や商業に従事することができず、
曹操軍も疲弊して体力がなくなっていくことでしょう。
この策を採用すれば、
二年以内に兵糧が尽きて我が軍が手を下すことなく滅亡することになるでしょう。」と進言します。
しかし袁紹は「そんなのんびりやってられるか!!」と言って田豊の進言を取り上げませんでした。
三国志ライター黒田レンの独り言
もし沮授もしくは田豊の進言が採用されていれば、曹操軍は袁紹に勝つことは難しかったでしょう。
持久戦に持ち込めば四方に敵がいる曹操軍の方が圧倒的に不利な状態であり、
敵がいない袁紹が曹操に勝つことはほとんど確実な状態であったと思います。
しかし大軍と名家の名声を持っていた袁紹は沮授や田豊の小賢しい作戦に耳を傾けることなく、
堂々と曹操軍と渡り合ったことが原因で敗北してしまいます。
ついでに沮授は袁紹軍が官渡の戦いに敗北した時に戦場に放置プレイされて、
曹操軍の捕虜になってしまい、田豊は袁紹が鄴に帰還した時に処刑されてしまいます。
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