【田疇の進言】烏桓討伐戦で曹操に助言したのは郭嘉だけではなかった!

2017年5月13日


 

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袁尚(えんしょう)・袁煕(えんき)の兄弟は曹操に敗北すると逃亡。

彼らが逃亡先として選んだのは昔から袁家と仲が良かった烏桓族の元です。

烏桓の実質的な指導者であった蹋頓(とうとん)は、

単于の意見に従って彼らを受け入れることになります。

 

 

曹操は烏桓を討伐するために郭嘉(かくか)の進言に従って北伐(ほくばつ)を開始。

この烏桓討伐戦で活躍したのは郭嘉(かくか)や張遼(ちょうりょう)だと思われがちですが、

実はもうひとり活躍した人物がいたことをご存知でしょうか。

有名な武将達の影に隠れてしまった烏桓討伐の立役者である人物を

ご紹介していきたいと思います。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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山に国家を作り出した在野の人物

 

曹操の烏桓討伐に参加したのは除無山(じょむざん)というところに

民衆達と一緒に住んでいた在野の人物である田疇(でんちゅう)という人物です。

彼は元劉虞(りゅうぐ)の家臣でしたが公孫瓉に殺害された事に激怒し、

一族を連れて山の中に住むことにします。

彼が除無山に住み始めると近隣の住民達が彼の元を訪れて、

次第に民衆の数がどんどん膨れ上がってきます。

そして彼は民衆達から推挙されて長になると法を定めていくと

民衆達は法をしっかりと守り道端に落ちている物すら拾わなくなっていきます。

さらに北方の異民族である鮮卑族や烏桓族などから貢物が届くようになり、

国家の様相を呈してくることになります。

 



独立不羈を貫き通す

 

袁紹は田疇の擬似的な国家にたいして使者を送り彼に対して将軍の位を授け、

率いている民衆達を自らの勢力へ取り込もうとします。

しかし田疇は袁紹からのもらった将軍の位をすべて返還し袁紹の誘いを断ります。

また袁紹の死後袁家の棟梁として振舞っていた袁尚(えんしょう)も

彼に対して度々使者を送ってきますが、

この袁尚の誘いに対しても断り、独立不羈を貫いていきます。

 

かつての恨みを晴らすために協力する

 

田疇は公孫瓉に主君である劉虞を殺害されたことに恨みを持っておりましたが、

彼は滅亡してしまいます。

しかし彼にはもう一つ恨みを晴らすべき勢力がありました。

それは烏桓族です。

彼は昔、烏桓族に同僚を殺害されておりこの恨みを晴らそうと心に誓っておりましたが、

烏桓を討伐するほどの大勢力を築くことができずにおりました。

そんな中、曹操軍が烏桓討伐に田疇の力を借りたいとの申し出がありました。

田疇はこの申し出を聞くとすぐに曹操軍に協力することを誓い参陣します。

 

田疇の策

 

田疇は曹操軍に加わっておりましたが、

この時ちょうど雨季に差し掛かっており道路はぬかるんでおり通行不可能でした。

また烏桓族も自らの領内へと続く道へ曹操軍を侵入させないため、

道路を寸断して防備を固めます。

曹操は烏桓討伐を行う道がなくどうすればいいのか判断を決めることができなかったため、

田疇に相談します。

すると田疇は「この地は毎年雨につかってしまい、

歩くことも船を浮かべたりすることもできない状態になってしまいます。

しかし烏桓の本拠地を突くことのできる細い道は残っております。

烏桓族は曹操軍が道を通ることができないことを知っており、

この細い道には守備軍はほとんどおいていないと思いますが万全を期すため、

この地に木札を立てて退却することを烏桓の守備兵に教えれば、

彼らは本拠地へ退却することでしょう。

その間我らは守備軍がいなくなった細い道を通って、

烏桓本拠地を突けば間違えなく勝利することが出来るでしょう。」と進言。

曹操は田疇の進言通り道の真ん中に木札を立てて

「雨が大量に降って道が寸断されているため雨が降らない秋になってから

再度出陣する。」と記しておきます。

すると烏桓族の守備兵達は曹操軍が退却すると思い込んでしまい、

本拠地へ退却していきます。

そして田疇を道案内として烏桓の本拠地である柳城から80キロほど離れた場所に

進出することに成功します。

 

三国志ライター黒田レンの独り言

 

曹操は田疇の作戦を採用したことにより敵陣へ向かって進軍を開始。

烏桓の兵士達は大いに驚いて迎撃の陣を構えますが、

曹操軍の攻撃に対応することができずに敗北してしまいます。

その後烏桓の単于や袁尚・袁煕兄弟は、

遼東の太守として君臨していた公孫氏に身を寄せますが、

公孫氏は彼らを殺害して曹操に恭順する姿勢を示したことによって袁家は滅亡し、

袁家が支配していた土地はすべて曹操の物になります。

もし田疇がいなければ曹操軍は道が分からずに烏桓族を討伐に

かなりの時間を要していたかもしれません。

すると南方の劉表や孫権が曹操の領土へ攻め込んで、

曹操の領内が大混乱した可能性を考えると田疇の活躍は

烏桓討伐戦の立役者にふさわしい活躍をしているのではないのでしょうか、

 

参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志魏書2 今鷹真・井波律子著など

 

 

次回記事:何で曹操はあれだけ関羽を愛していたのに配下から逃がしたの?

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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