ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志・僻地益州」のコーナーです。
212年、仁君で有名な劉備(りゅうび)が同族・劉璋(りゅうしょう)が治める益州に侵攻します。
はっきりいって劉備に益州を攻める大義名分はありません。
完全に勢力拡大のための侵略です。
後世ではこの劉備の不義を非難する声も多く聞かれるようになりました。
なぜ劉備が益州を攻めたのかは、
弱肉強食の戦国時代だったからという答えが最も適しているのではないでしょうか。
荊州の南で独立した劉備には、そこ以外に攻め獲る領地はなかったのです。
劉備の益州攻めに正統性を持たせるための言葉に「天下三分の計」があります。
要するに曹操や孫権に匹敵する勢力を持つためには益州を奪うことは絶対条件だったわけです。
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最初の被害者・楊懐(ようかい)と高沛(こうはい)
211年12月に益州牧・劉璋は劉備を迎えます。
場所は涪城です。歓迎の宴は百日に及びました。
その後、劉備軍はさらに漢中の張魯に近い葭萌に移り、ここで1年間治安維持に努めています。
その上流に広漢郡の白水関があり、劉璋は張魯に備えて益州の名将二人をここに配しています。
それが楊懐と高沛です。軍勢もかなり強力であったと記されています。
まともに真正面から戦っていれば劉備軍も相当の被害を受けたはずですが、
劉備は龐統の策を採用し、荊州に帰還するふりをして二将をおびき寄せ謀殺します。
劉備はこうして益州攻略の難関になるであろう劉璋の最前線の兵力を吸収してしまうのです。
楊懐と高沛がどれほど戦上手だったのかわからないのが残念ですね。
長男・劉循(りゅうじゅん)と張任(ちょうじん)
完全に劉璋に牙をむいた劉備は成都攻略のために進軍します。
涪城を落とした後は雒城を攻めます。ここに籠城したのが劉璋の長男・劉循と勇将・張任らでした。
劉循はなんと雒城で1年もの長きに渡り籠城し抵抗を続けるのです。
張任はここで劉備軍の軍師である龐統を討ち、武功をあげます。
龐統については「正史」では雒城の包囲の最中に流れ矢に当たり戦死したと記されています。
「三国志演義」では劉備の白馬を借りたところ出撃してきた
張任に劉備と間違えられて射殺されたことになっています。
有名な「落鳳坡」という場所です。
どちらにせよ益州の名将二人をだまし討ちにした龐統はこうして仇を討たれるのです。
張任はその後、捕らえられていますが、降伏することなく処刑されました。
劉循は1年間の抵抗の末、劉璋の降伏を聞いて城を明け渡しました。
どちらも劉備を苦戦させる活躍を見せています。
ちなみに張任は名士でも豪族でもなく、貧しい家柄だったそうです。
剛胆さを認められて州の従事に出世しています。
「老臣は二主に仕えず」とかたくなに帰順を拒絶し、劉備を感服させました。
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軍師・李厳(りげん)
実は劉璋は軍師を置いていません。
軍師代役のような形で李厳を起用しています。役職は護軍です。
李厳はもともと劉表の配下でしたが、劉表の死と曹操の侵攻によって益州に亡命してきていたのです。
劉璋はそんな李厳を成都の県令に任じていますから、
劉表に仕えていた頃から李厳の手腕は評価され、他国にも名が知れ渡っていたのでしょう。
劉璋は綿竹に期待を込めてこの李厳を送り出しました。
三国志演義ではなんとあの五虎大将の黄忠(当時はまだ五虎大将ではありませんが)と一騎打ちをし、
引き分けています。まさに文武両道の勇将です。
しかしこの李厳、すぐに劉備に帰順します。正史では一戦もせずに降伏しているのです。
劉備は李厳をすぐに裨将軍に任じています。劉璋にとって期待外れだったのが李厳です。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
結局、劉璋は馬超が劉備に降ったことを聞いて抗戦をやめました。
劉璋にとって致命的だったのは、直属兵である「東州兵」と地元の豪族が対立していたことです。
統率力という点において劉璋はトップに立つ器ではなかったのかもしれません。
ということで劉備の益州侵攻の最難関は「劉循」ではなかったかと私は思います。
劉循が益州牧であればもっと劉備は苦戦していたのではないでしょうか。
みなさんはどうお考えですか。
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