彼は曹操の文官として関中方面で活躍し
曹操・曹丕(そうひ)・曹叡(そうえい)の曹家三代に仕えた魏の重鎮です。
そんな彼の息子には蜀討伐戦の総大将に任命された鍾会(しょうかい)が有名ですが、
彼の兄貴も的確な進言を曹叡に幾度も行っている優れた人物ですがご存知でしょうか。
その名を鍾毓(しょういく)と言います。
はじさんでも一度レンが取り上げさせていただきましたが、
今回は彼がどのような的確な進言を曹叡へ行っていたのかをご紹介しましょう。
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経済面から曹叡の出陣を諌める
鍾毓は鍾繇の嫡男として誕生し青年期から魏の朝廷に仕えており、
頭の良さと鍾繇の息子であることから魏の群臣達から期待をかけられていたそうです。
蜀の諸葛孔明(しょかつこうめい)は蜀軍を率いて魏を討伐するべく北伐を開始し、
祁山(きざん)に蜀軍を駐屯させて魏軍と対峙することになります。
魏軍の総大将は孔明のライバルである司馬仲達(しばちゅうたつ)です。
魏軍と蜀軍は膠着状態になっており、魏の朝廷にも魏軍と蜀軍の情報が伝わってきます。
魏の二代目皇帝・曹叡は自ら出陣して司馬仲達の応援へ出向こうと考えておりました。
鍾毓は曹叡が司馬仲達の応援に出向こうとしていることを知ると上奏文を彼へ送ります。
鍾毓は曹叡へ「今、陛下が大軍を率いて司馬仲達の応援に出向けば非常に強力な
応援となるに違いありません。
しかし関中(かんちゅう)へ出陣する際の出費を考えると
非常に大きな損害を被ることになります。
わざわざ陛下が大軍を率いて出陣しなくても司馬仲達に任せるのがいいと考えます」と
曹叡出陣に対して反対意見を述べます。
この意見を聞いた曹叡は鍾毓を黄門侍郎へ昇進させることにし、
司馬仲達応援の出陣を取りやめることにします。
曹爽の蜀侵攻から撤退するように進言
鍾毓は曹爽(そうそう)が大軍を率いて蜀へ攻撃を行いますが、
しかし蜀軍の鉄壁の迎撃態勢に阻まれて思うように行きませんでした。
鍾毓は曹爽軍があまり戦果を挙げていないことを知ると彼へ手紙を送ります。
鍾毓は曹爽へ「戦は勝てると思ったら一気に進軍して、
負けると感じればすぐに撤退することが肝要です。
どうか曹爽様にはこの事をしっかりと考えて行動していただきたいと思います。」と
進言します。
曹爽は鍾毓の手紙を見ると蜀軍の猛反撃が来る前に撤退を決意したそうです。
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「孫呉軍は弱まっていないですぞ」By鍾毓
司馬懿が魏の政権を握り、
彼が亡くなると長男である司馬師(しばし)が司馬家の棟梁として君臨することになります。
しかし彼も亡くなると彼の弟である司馬昭(しばしょう)が、
司馬家の棟梁として就任。
司馬昭が司馬家の棟梁として君臨した時に淮南(わいなん)地方で
諸葛誕(しょかつたん)が反乱を起こします。
彼は呉と同盟を結んで後ろ盾を得ることに成功しておりました。
司馬昭は諸葛誕が呉と同盟を結んでいる事を知るとこの反乱をすぐに鎮圧するため、
自ら軍勢を率いて討伐しようと計画。
そんなある日、魏へ呉の将軍が降伏してきます。
すると魏の諸将は司馬昭へ「呉の将軍が降伏してきたのは、
呉が諸葛誕に協力することができない状態であることを
示しているのではないのでしょうか。」と進言。
鍾毓は諸将の意見を知ると司馬昭へ
「呉の将軍が降伏してきましたが、彼が率いていた兵数はたったの300人で、
呉の国内が失ったの物はほとんどないと言っていいでしょう。
この事を理由に呉の国内が乱れていると思うのは違うのではないのでしょうか。
呉は諸葛誕が要請すれば必ず援軍を差し向けてくるはずで、
彼の反乱を放置するべきではありません」と進言します。
この進言を聞いた司馬昭は彼の意見を聞いたことがきっかけで
司馬昭自ら諸葛誕討伐へ出陣することになるのです。
三国志ライター黒田レンの独り言
鍾毓は上記のように色々な進言を的確に行っており、
司馬昭自ら諸葛誕の反乱討伐へ向かっても一年以上が掛かってしまうことになります。
しかし彼が出陣しないで反乱を様子見もしくは諸将に反乱討伐を任せていれば、
反乱討伐にもっと時間がかかっていたか、
反乱の範囲が広がり大変なことになっていかもしれません。。
すると鍾毓の進言はまことに的確な状況分析の上での進言だったと思いますが、
はじさん読者の皆様はどのように思いますか。
参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志魏書2 今鷹真・井波律子著
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