ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志・これが起きたら時代は変わった!」のコーナーです。
三国志最強の武将といえば、真っ先に名前があがるのが「飛将」と呼ばれて
匈奴から畏怖された驍勇、呂布奉先でしょう。
名馬・赤兎馬にまたがり、自由自在に方天画戟を振るう姿はまさに三国志の花形です。
しかし天下に名を知られた呂布も198年に曹操に捕らえられて処刑されてしまいます。
198年といえば、反董卓連合が結成されてからわずか8年後のことです。
呂布の活躍した期間は本当に短かったといえますね。しかし残したインパクトは絶大です。
日本で例えると6年間しか実働のない新選組が、後世に絶大な影響力を及ぼしています。
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騎馬隊を率いれば敵なしの呂布
呂布の騎馬隊の精強さはさまざまな三国志の作品で語られています。
私が愛読している北方謙三先生の「三国志」では、
呂布軍の騎馬隊の核となる旗本五百騎の動きはまさに一匹の龍のようであると描写されていました。
三国志「正史」においても呂布自身が、
「曹操が歩兵を率い、自分が騎兵を率いれば天下は容易に平定できる」と豪語しています。
配下にも猛将として名高い張遼や、戦上手の高順などがおり、恐ろしいほどの攻撃力を誇っています。
攻めれば無類の強さの呂布も、いざ籠城となると武勇を活かしきれなかったようです。
人材コレクターの曹操がなぜ呂布を処刑したのか
敵陣の人材であっても有力と見れば引き抜くのが曹操です。
重臣の顔ぶれを見ても以前は曹操に敵対していた者も少なくはありません。
張遼、徐晃、張郃、龐徳、高覧、賈詡、陳登、張繍、張燕、劉勲、許攸、臧覇、昌豨などがいます。
張繍など一度降伏した後、反乱を起こして曹操の長子・曹昂や
護衛の典韋などを殺害していますが、曹操はその後の降伏も受け入れています。
昌豨など何度、曹操を裏切り反乱を起こしたことか。
その都度降伏を許されました(最期は于禁の独断で処刑されていますが)。
恨みがあっても天下泰平のため、有力な人材は起用するのが曹操です。
劉備や関羽を保護したことがあるほどです。
しかし呂布は処刑しています。
正史にも三国志演義にも同様の記述がありますが、
呂布の起用に心を動かされた曹操にくぎを刺したのは劉備です。
丁原を裏切り、董卓を裏切った男を信用してはいけないと助言したのでした。
曹操はそれを聞いて処刑を決断します。
恐らく劉備にしてみたら、
曹操と呂布が手を結んだら手が付けられなくなると懸念したのではないでしょうか。
実は曹操にしても劉備と呂布が手を結んでいたときはかなりの脅威に感じていたようです。
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もしも呂布が曹操に起用されていたら
先鋒を任されていたら対袁紹戦で大きな成果をあげているでしょう。
兵糧不足の関係で多方面同時展開の作戦がとりにくい曹操の陣営ではあったものの、
呂布を総大将にして荊州攻めを命じることも可能です。
一気に荊州北部を制圧できたかもしれません。
問題はどこまで信用できるか、呂布の独立や反乱をどこまで抑えられるかです。
赤壁の戦いで曹操が大敗した直後などが危険ですね。
まず確実に反乱を起こしていたのではないでしょうか。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
呂布がその生涯を閉じるまで曹操に忠誠を誓うということはありえません。
再び、曹操の前に立ちはだかるのは明白です。
その時に呂布がどの勢力と手を結んでいるのかがポイントになるでしょう。
潤沢な経済力と軍事力を有している勢力が背後につけば呂布はさらに脅威となります。
孫策、孫権などと結びつけば、呂布は徐州・青州・豫州などで暴れまわることになり、
その征伐は容易な事ではありません。
下手をしたら曹操が滅ぶことにもなりかねません。
将来のことを考えると、曹操が呂布を処刑したことは正解だったのではないでしょうか。
でも生きていてくれたほうが盛り上がったのは確かでしょうね。
みなさんはどうお考えですか。
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