三国志後半の名将の一人であり諸葛孔明(しょかつこうめい)から「優れた人」として
高い評価を受けていた姜維・伯約(きょうい・はくやく)。
姜維(きょうい)は魏を倒すために幾度となく蜀軍を率いて何度も戦いを挑みますが、
蜀の国土を広げることはできずに連敗してしまいます。
一見すると姜維の北伐戦は魏を倒すための北伐だと思われますが、
もしかしたらシルクロードを奪って西域との貿易を考えていたかもしれません。
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この記事の目次
姜維の北伐はシルクロードを奪うためだった!?
蔣琬・費禕の時代は積極的に魏へ攻撃を仕掛けることなく、
諸葛孔明(しょかつこうめい)の北伐戦で疲弊した蜀の国力を回復させる方針を貫いておりました。
そのため将軍の位にあった姜維は魏とあまり戦うことができない状態でしたが、
蜀の国力は少しづつ回復していくことに。
だが二人の丞相(じょうしょう)が亡くなると姜維は蜀軍のトップとして君臨し、
積極的に魏へ攻撃を仕掛けますが、
姜維が行った北伐は魏を打倒するものだとはどうしても考えにくいのです。
その理由は魏の重要拠点である長安に向かって北伐を行っていないからです。
では一体どこへ向かって北伐を行っていたのか。
それは長安とは真反対にある隴西(ろうせい)地方に攻撃を仕掛けていたのです。
なぜ姜維は魏の重要拠点である長安(ちょうあん)を奪うのではなく、
隴西地方を攻撃目標としたのでしょうか。
それは姜維が隴西地方を奪うことで、
シルクロードを通って中国(魏)との交易路を遮断し、
蜀が魏に代わって西域との貿易をしようとしていた可能性があったのです。
姜維の北伐歴でシルクロードを狙っていたことが分かる!?
姜維がシルクロードを狙っていた可能性の証左として、
姜維の北伐年表から伺うことができます。
ザックリと下記に記しておきますのでご覧下さい。
253年:南安(なんあん)郡を包囲するも兵糧不足で撤退。
254年:狄道(てきどう)を降伏させ、襄武(じょうぶ)で魏の将軍・徐質(じょしつ)を討ち取る。
さらに3県(河間(かかん)・狄道・臨洮(りんとう))の住民を拉致って帰還。
255年:夏侯覇(かこうは)・張翼(ちょうよく)を率いて洮水で王経(おうけい)率いる
魏軍と決戦し大勝利を収める。
その後王経が逃亡した狄道城へ攻撃するも陳泰率いる援軍に敗北して撤退。
256年:上邦(じょうけい)で鄧艾(とうがい)軍に敗北。
257年:諸葛誕(しょかつたん)の乱に乗じて隴西方面に北上していくが、
迎撃に出てきた鄧艾軍が城にこもっていたため撤退。
262年:隴西軍の侯和(こうわ)へ攻撃を仕掛けるが鄧艾軍に敗北してしまい撤退。
上記が姜維の北伐をザックリと表した物になるのですが、
姜維のこの北伐戦は東に向かって攻撃を行っておらず、
すべて隴西地方(狄道城近辺)に向かって蜀軍を率いて攻撃しているのです。
この隴西地方には絹の道・シルクロードが通っており、
北伐経歴年表を拝見することで
姜維がシルクロードを狙っていたと考えられないでしょうか。
しかし姜維がシルクロードを狙って北伐を続けていた場合、
ある疑問が浮かびませんか。
それは姜維は諸葛孔明と一緒に北伐戦に参加しており、
孔明の北伐作戦の大義名分「魏の打倒」を目標とした北伐作戦と
知っていたにも関わらずなぜシルクロードを狙ったのかと言う点です。
姜維はなぜシルクロードを狙ったのでしょうか。
【北伐の真実に迫る】
シルクロードを狙った理由とは蜀の経済の立て直しと現状維持だった!?
姜維はなぜ孔明の目標である「魏の打倒」を目標とした北伐作戦を行わずに
シルクロードを狙った北伐作戦を行ったのか。
この点について述べていきたいと思います。
姜維がシルクロードを狙って何度も北伐を行った理由は、
蜀の経済の立て直しと現状を維持するために必要だったからです。
まずは蜀の国を現状のまま維持しようとした理由について考えてみましょう。
その前に姜維が北伐を行わなかった場合を考えてみましょう。
蜀が北伐を行わずに内政に力を蓄えた場合、
国力は少しづつですが増加していったと考えられます。
また魏の国も蜀が攻撃を仕掛けてこないため、
蜀と国境を接している西方(涼州(りょうしゅう)・雍州(ようしゅう))の
内政に専念することができます。
しかし蜀と魏の国土の大きさを比較した場合魏の方が蜀よりも圧倒的に広大です。
さらに蜀と魏の国力差を比較するとなんと4倍以上の差がありました。
もし魏が呉との国境に最低限の守備兵をおいて、
魏軍の総力を挙げて蜀へ攻撃を仕掛けてきた場合、
4倍以上の国力差がある蜀の国は魏軍の攻撃を防ぎ切ることができるのでしょうか。
レンは無理だと思っております。
蜀の国土の大半は昔から周りを山々に囲まれていたため、
攻めにくく守りやすい地形であったと言われております。
しかし4倍以上の国力差を持った魏軍の攻撃にさらされ続ければ、
耐え抜くことができた可能性はかなり低かったのではないのでしょうか。
姜維も上記のことを当然考え、
どうすれば蜀と魏の国力差を縮めることができるのかと思案したでしょう。
その結果として姜維は北伐を連年起こすことで蜀と魏の国力差をなんとか
縮めようとしていたのではないのでしょうか。
しかし蜀と4倍もの国力差を持った魏の国に連年攻撃を仕掛け続ければ、
蜀の国の経済状況が悪化することも考えていたでしょう。
そこで彼が連年北伐を行っても蜀の経済状況を悪化させないための策として、
シルクロードに目をつけたのではないのでしょうか。
西域諸国から中国に運んでくる商品を買い入れ、
魏や呉の国々へ西域諸国の珍しい品を売り渡することによって、
北伐で疲弊した蜀の経済状況の悪化を防ごうとしていたと思われます。
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三国志ライター黒田レンの独り言
姜維は必ずしも無計画で連年北伐を繰り返しているわけではありませんでした。
孔明が目指した中原回復を目的とした北伐を行うことが、
姜維が大将軍となった時には難しい状況となってしまいます。
なぜ中原を回復することが難しかったのか。
レンが考える理由としては蜀の人材不足が原因であったのはではと考えます。
孔明が北伐戦を行った時でさえ軍事面での人材不足は深刻な状況でした。
諸葛孔明死後になると軍事面で有能な人材は払拭している状態で、
魏軍と渡り合うことのできる武将は幾人かを除いていない状態でした。
そのため姜維は蜀の国内で軍事面における有能な人材が払拭している状態を考え、
蜀の国を長く生き残らせるための策として敢えて、
魏からシルクロードを奪って西域諸国と交易としてたのではないのでしょうか。
上記に当てはめれば姜維が決して無計画で何度も北伐を行ったわけではなく
しっかりと劉備が建国し孔明が基礎を作った蜀の国の事を考えて
行動していたと言えるのではないのでしょうか。
しかし現実は姜維の考えたように上手くいかずに蜀の滅びてしまうのは、
余りにも悲しいと言わざるを得ません。
もし蜀の国が南方諸国と西域諸国二つの交易路で盛んに交易をしていたとすれば、
魏との国力差を縮めることができたかもしれません。
魏も軽々しく蜀に手を出すことができない状態になっており、
呉・蜀の同盟は孔明が生きていた時よりもしっかりとした連携を取っており、
魏が両国に手が出せない均衡状態を作り出すことができたかもしれません。
そうなれば三国志はもう数十年続いていたかもしれませんね。
このように姜維の北伐について推察してみましたが、
皆様は姜維の北伐戦が何のために行われたと考えることができますか。
参考文献 新人物文庫 「三国志」異民族との戦い 坂口和澄著など
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—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—