まだ漢王朝で消耗してるの?第4話:九品官人法 陳羣(ちんぐん)

2017年9月26日


 

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董卓(とうたく)の暴政により崩壊した漢は、曹操(そうそう)という

稀代のデザイナーによりその設計が見直され、およそ30年の準備期間を経て

曹丕(そうひ)による魏の建国により、静かにその歴史に幕を降ろします。

しかし、漢王朝400年の残滓は、まだ社会のそこかしこに色濃く残っていました。

曹操は人材登用においては、法整備が整わない間に亡くなったので、

その事業は陳羣(ちんぐん)という天才に引き継がれる事になります。

 

前回記事:まだ漢王朝で消耗してるの?第1話:改革なき破壊者 董卓

前回記事:まだ漢王朝で消耗してるの?第2話:早すぎた改革者 袁術

前回記事:まだ漢王朝で消耗してるの?第3話:赤壁の敗戦と新国家の骨格 曹操

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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名門の家に産まれた陳羣

 

陳羣長文(ちんぐん・ちょうぶん)は、豫州頴川郡許昌県に産まれました。

頴川郡という地名でピンと来る人もいるでしょうが、ここは後漢を通じて

名士を出した土地で陳羣も多聞に漏れず、祖父は梁上の君子の故事で有名な

陳寔(ちんしょく)、父は董卓の朝廷に仕えた陳紀(ちんき)で、

陳羣も同郷の荀彧(じゅんいく)の娘を妻に貰っています。

 

あの気難しい孔融(こうゆう)とも友達だったようですが、

禰衡(でいこう)には評価されませんでした。

祖父の陳寔は、この孫に一族の期待を掛けていましたが、その頃朝廷は董卓の独占物、

さらに董卓の死後も、李傕(りかく)郭汜(かくし)が献帝を牛耳り、

陳羣は当初、漢王朝に仕官する事は出来ませんでした。

 

珍しく、劉備を見限った陳羣

 

そんな陳羣が最初に仕官したのが豫州の刺史だった劉備(りゅうび)

州吏の筆頭である別駕(べつが)に取り立てられる事になります。

しかし、西暦194年、劉備は徐州の跡を継いで徐州牧になろうとし、

陳羣に猛反対されました。

 

「南には袁術、西には呂布がいる中で、州牧を引き受けるのは

火中の栗を拾うようなもの。どうかおやめ下さい」

 

ところが、劉備は徐州牧の香ばしい響きと孔融の

「バックアップするからお願い!」という言葉に負けてしまい

陳羣の反対を押し切り、徐州牧に就任します。

 

ところが劉備は、兗州から逃げて来た呂布に迎え入れた途端に裏切られ、

戦っても勝てずに敗走、曹操の元に逃げ込んでしまいます。

 

一方の陳羣は茂才の推挙で得た県令の話を断り、父と共に徐州に留まります。

劉備と行動を共にしなかったのは「劉備は危なっかしい」という事なのでしょう。

大半の英傑が劉備の人柄に惚れこむのに陳羣は馬が合わなかったようです。

 

西暦198年、徐州を支配していた呂布が下邳で曹操に降伏すると、

陳羣も降伏者の礼で土下座して曹操を迎えたとあるので、一応、陳羣も

在野にいたのではなく、呂布に仕えていたという事かも知れません。

 

曹操は陳羣を採用して丞相西曹掾属(さいそうえんぞく)とし

陳羣は間接的に漢王朝に仕える事になります。

 

まだ漢王朝で消耗してるの?

 

人を見る目に優れていた陳羣

 

陳羣が丞相西曹掾属になって間も無く、楽安の王模(おうも)と

下邳の周逵(しゅうき)を登用するという命令書が曹操から届きました。

しかし、陳羣はそれを見るなり、木簡の封印も切らないで曹操に送り返しました。

「この二名は、不道徳ですから登用すると禍を起こします」

曹操は陳羣の言い分を無視して、二人を採用すると、陳羣の言う通り、

二人は道徳的に問題があって罪を犯してクビになりました。

 

曹操は陳羣の意見を聞かなかった事を詫び、以後はその助言を受け入れます。

陳羣は、その後も陳矯(ちんきょう)や丹陽の戴乾(たいかん)を始め、

多くの人物を推挙しますが、そのいずれも外れが無かったので、

人々は陳羣の人物鑑定眼の確かさを評価しました。

 

一方で陳羣は素行が悪いとして不良成年、郭嘉(かくか)も弾劾していますが、

曹操は陳羣の正直さと郭嘉の才能を愛し、いずれも賞賛して罪に落す事は

ありませんでした。

 

曹操の絶大な信用を得て、曹丕の学友に選ばれる

 

陳羣は県令を歴任した後に父の死によって一度、官職を離れますが、

後に司徒掾(えん)となり高い実績をあげて治書侍御史(ちしょ・じぎょし)に任じられ、

その後、参丞相軍事(さんじょうそうぐんじ)に転任しました。

 

こうして、西暦216年、曹操が魏王になり、魏が藩国として建国されると

昇進して御史中丞(ぎょし・ちゅうじょう)に任ぜられています。

 

この頃、陳羣は曹操に皇帝に即位すべしとほのめかしましたが、

曹操は世間を警戒して取りあわず、沙汰やみになっていきます。

 

陳羣の運命を変えたのは、彼が曹丕(そうひ)と親しかった事でした。

彼は太子時代の曹丕に敬意を持って友人として仕え、曹丕に重んじられ、

司馬懿(しばい)呉質(ごしつ)、朱鑠(しゅれき)と並んで太子四友と呼ばれます。

 

後に初代皇帝となる曹丕と親しい事は思いきった登用制度改革である、

九品官人法がすんなりと受け入れられる下地になります。

 

陳羣は皇帝に直属する人材を求めて九品官人法を上奏する

 

西暦220年、曹操が死去すると、曹丕は名ばかりの皇帝になっていた

後漢の献帝に迫り禅譲を実現させます。

ここに、漢は400年の歴史を閉じ曹魏が建国され、同時に陳羣は

魏の文帝となった曹丕に、九品官人法の施行を上奏して許可されます。

曹魏は建国の初年から、漢とは違う人材登用システムを取り入れたのです。

 

西暦220年の九品官人法の制定に至るまで、人材登用に関しては

旧態依然とした郷挙里選挙による登用が行われていました。

 

郷挙里選挙とは、前漢の武帝の時代から標準化した300年近い、

伝統のある人材登用法で、郷の長老達が郷で有望な人材を選んで推薦し、

それを地方の郡長官が選んで役人として登用するシステムです。

 

一見、問題なさそうですが、実際に人材を選ぶのは地方の豪族が多く、

彼等は自分達の利益の代弁者を人材として推挙しました。

 

地方の郡長官も、豪族の協力が無いと統治はおぼつかないので、

そのまま、その人材を登用して中央に挙げてしまいますから、

中央では、各豪族の利益を代表する名士が派閥を造り、

皇帝よりも地元の利益を求める政治を行う事が多々ありました。

 

曹操はこの弊害に気が付いていて、求賢令を出し能力第一の人材を登用せよと

各地に命令を出していましたが、結局、選ぶのは地方の豪族なので

旧態依然とした人材しか選ばれて来なかったのです。

 

それを是正する前に曹操は病に倒れてしまったので、残された陳羣は、

人材の登用権を地方豪族から、皇帝の手に取り戻そうと考えます。

それが九品官人法の根本的な仕組みでした。

 

九品官人法の具体的な仕組みとは何か?

 

九品官人法では、人材のランクを最上の一品から最低の九品にランク分けします。

だから、九品官人法と言うわけです。

ただし、これを選ぶのは地方の豪族ではなく、皇帝が任命した中正官でした。

 

中正官によって、決められるランクを郷品と言い、例えば、郷品が二品になると

その人材は、そこから四品下の六品から出世をスタートします。

この4ランク下のスタート地点を起官家と言います。

 

そして、これが特徴的なのですが、どんなに、その人材が有能でも、

最初に決められた郷品より上に昇進する事は出来ません。

仮に六品と決められると、その人は九品を起官家として出世を開始し

六品に到達した所で打ち止めになるのです。

 

 

これまでの才能があれば、どこまでも出世できた時代と違い、

中正官の匙加減で、その後の長い役人人生が決定してしまう事になります。

当然、中正官には、大きな権限が与えられる事になりました。

 

この打ち止め式は、陳羣が皇帝にとって意に沿わない人材を低い身分に

留める為のカラクリでした、中正官が皇帝に直結している限りは、

何の問題もない筈でしたが、やがて変質して大きな問題を起こします。

 

九品官人法を残し、陳羣は236年に大往生する

 

陳羣は曹丕を支え九品官人法を制定した手柄から、尚書に任じられ、

その後は、尚書と大将軍を兼ねる形で録尚書事(ろくしょう・しょじ)にまでなります。

西暦226年に曹丕が死ぬと、司馬懿曹真(そうしん)と共に次の皇帝

曹叡(そうえい)の後見を任され呉質の讒言を受けて、叱責を被る事もありましたが、

失職する事はなく、司空に任命された後も録尚書事を兼務していました。

 

曹叡が晩年に、大建築狂になった時には、司馬懿と共にこれを諌め、

曹叡はこの為に、計画の一部を縮小したと言われています。

 

西暦236年、陳羣は死去、年齢は不詳ですが、劉備が徐州牧の頃から

生きているので、60歳は過ぎていたと考えられます。

陳羣の生み出した、九品官人法は、400年後の隋の時代に科挙が登場するまで

中国の歴代王朝が踏襲した人材登用の基礎になるのです。

 

まだ漢王朝で消耗しているの? 4 ポイント

 

・陳羣が制定した九品官人法はどういうものか?

 

1 従来の人材登用は郷挙里選挙と呼ばれ、地方の豪族が自分の息がかかった人材を

郡長官を通し中央に送り込むシステム化し皇帝が直接人材を選べなかった

地方から推挙された人材は出身地ごとに派閥を結成し故郷優先の政治をした。

 

2 曹操は求賢令を出して、門閥のしがらみに関係なく能力主義で、

人材を登用せよと命じたが、根本システムが郷挙里選挙の為に、

その目的を充分に達成できなかった

 

3 陳羣は皇帝直属の中正官というポストを置いて人材の登用と

最終的な官位の決定までを任せる大きな権限を与えた。

これにより、地方豪族が人材を中央に送り込むのは難しくなった。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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