【荀彧の日記念】荀彧の妻は宦官の娘?曹操とのシンクロが半端ない

2018年6月19日


 

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6月19日は荀彧(じゅんいく)の日です、kawausoは知らずに今日が命日?と思っていると、どうやら語呂合わせで、6月(June)と19(イク)で荀彧のようです。

 

そこで今回は、荀彧の妻について書いてみます。曹操(そうそう)と言えば宦官(かんがん)曹騰(そうとう)の孫ですが、荀彧は宦官唐衡(とうこう)の娘を(めと)っていました。つまり、荀彧の義父は宦官だったのです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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大外戚梁冀を誅殺した五宦官の一人唐衡

 

唐衡は、後漢の恒帝(かんてい)に仕えていた宦官でした。当時の朝廷は、頭は悪いが非常にキレやすく、気に食わない相手はすぐに殺す事で権力を維持した大外戚梁冀(りょうき)の天下でした。自分を批判すれば皇帝でも躊躇(ちゅうちょ)なく殺害する梁冀の凶悪さに清流派の官僚もブルってしまい、叛く意気地がないので桓帝は困り梁冀を除くのに宦官の手を借りる事にします。

 

メインになったのは仲常侍の単超(たんちょう)徐璜(じょこう)具瑗(ぐえん)それに小黄門の唐衡、左悺(さかん)等も加わってクーデター計画は現実化しました。

 

梁冀排除は成功、自宅を朝廷の軍に包囲された梁冀は悪あがきもせずに自殺はじめて自分の手に権力を取り戻した桓帝は、自分に手を貸してくれた五宦官に深く感謝して寵愛(ちょうあい)するようになります。

 

唐衡は出世し、桓帝の寵愛をよい事に権勢を振るいます。負けた外戚勢力は、太学生と結託するなどして朝廷に押しかけてデモをし宦官の汚職一掃キャンペーンをやり、危機感を持った宦官が皇帝に働きかけ結局、それが第一次党錮の禁(とうこのきん)に繋がります。

 

清流派官僚の苦渋 荀緄が唐衡の娘を娶る

 

当時の宮廷には尚書として荀彧の父、荀緄(じゅんこん)がいました。この時、唐衡は娘を荀緄の息子で当時二歳になったばかりの荀彧に娶らせようとします。

 

え?宦官に娘がいるの?

 

はい、普通に考えればいないですが、子供をつくって後に刑罰などの理由で宮刑を受ければいる可能性もあります。秦帝国を滅ぼした最凶宦官、趙高(ちょうこう)にも宦官になる前に生まれた娘がいました。

 

 

もっとも正式な結婚の約束ではなく、将来はというカッコつきの許嫁でしょう。なにしろ荀彧は二歳、相手の唐衡の娘もそれに見合う年でしょうからね。しかし、清流派官僚として鳴らした荀緄が自分の息子に宦官の娘を娶るのはかなりの心理的な葛藤があったのではないかと思います。

 

宦官など生殖機能を断たれた非人間というのが儒教的な価値観ですから非人間の娘と息子を結婚させるというのは外聞にも響く事でしょう。実際に典略(てんりゃく)では、宦官の権力に(おもね)った荀彧を非難する文章を乗せています。当時二歳の荀彧に何が出来たというのでしょうね・・

 

ただ、時代は第一次党錮の禁の直前、唐衡の申し出には荀氏は自分の味方になるか敵になるのか?という判断もあったでしょう。実際に、第一次党錮の禁では荀緄は尚書の身で獄に下っています。それでも復権できたのは、唐衡の娘を荀彧の妻にするという微妙な姻戚関係があったからではないでしょうか?

 

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唐氏を仲介して、少帝とも献帝とも繋がる荀彧

 

唐衡自体は、163年に亡くなっていますが、唐氏の権勢はやや落ちつつも残り、一族の唐珍(とうちん)が173年に司空になっています。もう一つ、献帝の異母兄弟の劉弁(りゅうべん)、少帝の妃の唐姫は、この宦官、唐衡の一族で会稽(かいけい)太守の唐瑁(とうぼう)であるようです。

 

党錮の禁は184年の黄巾(こうきん)の乱まで継続され、仲常侍に敵と見なされた清流派の官僚は、多くが出世の道を閉ざされる中で、清流派の代表のような荀氏が残っているのは、荀彧が唐衡の娘と縁組した事も大きな力だったと思われます。

 

荀彧がいつ結婚したのか分かりませんが、当時の習慣を考えれば20歳前後では嫁を取っていたと思います。唐氏の娘も同い年位でしょう。

 

 

また、少帝に嫁いだ唐姫は少帝が自殺した後に、不遇な身の上を哀れに思った献帝が弘農王妃(こうのうおうひ)として宮中に置いています。

 

宦官を倒す袁紹

 

二人は曽祖父が同じなだけで、どれほど接点があったか分かりませんが袁紹(えんしょう)による宦官の殺戮、董卓(とうたく)の暴政、洛陽の炎上から、李傕(りかく)郭汜(かくし)の暴政まで没落した唐氏の身の上話をする事ももしかしたら、あったかも知れません。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

曹操は宦官の孫として生まれ、荀彧は一族の為に宦官の娘を嫁にする。

 

曹操は荀彧の7歳年長ですが、宦官の事情には詳しいであろう曹操は、自分を反転させたような荀彧を昔から知っていたのではないでしょうか?

 

そして、荀彧も自身も宦官の娘を妻にしているから、曹操を色眼鏡で見ないで済んだ、、そうだとすると、二人の出会いには宦官というキーワードが大きく絡んでいるのだなと思います。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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