坑道戦とは、地下にトンネルを掘って相手の陣地の下に潜り込み、建造物を地下から破壊する戦法です。時間はかかるものの、相手に気づかれにくく、その上、成功すれば相手に会心の一撃を与えられるということで、世界中で広く用いられた戦法です。三国時代、あの袁紹も坑道戦を得意としていました。
易京の戦いにおける坑道戦
公孫瓚の易京城は幾重もの壕と城壁を構える城でした。この城の中にいる限り、公孫瓚はまさに無敵。10年分の食料を蓄えている公孫瓚は、中央に土を盛って山を築いてそこに居を構え、文字通り高みの見物を決め込んでいました。
「兵書には百の楼を持つ城を攻めてはいけないとあるが、我が城には千を超える楼がある。私が城中の食料を食いつぶすころには天下の行方もわかるだろう」などとのたまうほどに余裕綽々な公孫瓚。
袁紹が降伏するようにたしなめる手紙を送っても、無視を決め込み逆に軍備を増強して挑発して見せます。自身の側近さえも遠ざけ、側室や下女だけを囲って色に耽って優雅に暮らしました。流石に大口を叩くだけあり、袁紹軍も大苦戦。何年経っても落とせない易京城…。
しかし、いつまでも手をこまねいている袁紹ではありません。業を煮やした袁紹は、ついにあの作戦を決行します。地上で楼が落とせないなら、地下に潜って楼の下から攻めればいいじゃない。というわけで、地下を掘り進める袁紹軍。公孫瓚軍の楼の基礎部分に突き当たったら、しっかり楼の下の土を掘り下げつつ楼の足元を支えるように木枠を組み上げます。
袁紹は木枠が無くなった途端に楼が崩壊してしまうように工作したのです。では、どのように木枠を除くのか。袁紹は木枠を一気に焼き払ってしまったのです。基礎が崩されてはどんな建物もひとたまりもありません。急に足場を失った楼は、バランスを崩してその自重に耐えられなくなり、盛大に崩れ落ちます。
このような方法で公孫瓚ご自慢の千もの楼をどんどん崩し、とうとう袁紹は公孫瓚の喉元にまで迫ります。公孫瓚は落とされることがないはずの城を攻略されたことに酷く動揺し、もはやこれまでと妻子を道連れに自害してしまいました。
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官渡の戦いでの坑道戦
天下分け目の関ヶ原、ならぬ官渡の戦いでも、袁紹は坑道戦を曹操に仕掛けます。緒戦で顔良と文醜という二大戦力を失った袁紹ですが、人海戦術によりじわじわと曹操軍を追い詰め、官渡の砦に押し戻します。あとは砦を破り、曹操を引きずり出すのみ。袁紹は堅牢な城を崩すためにまず土山を築きその上に楼を建設して矢を放ちます。激しい矢の雨に、曹操軍も盾無しでは外に出られないほど。
しかし、曹操も負けじと投石器で対抗。同じように土山を築き、そこから巨石を発射。袁紹軍の楼は巨大な石を撃ち込まれ、バキバキと嫌な音を立てて壊れていきます。地上での戦に苦戦を強いられた袁紹は再び坑道戦を仕掛けますが、公孫瓚のときのように鮮やかには決まりません。
それどころか、曹操も同じように地下道を掘ってきて応戦。地上でも地下でも熾烈な争いが繰り広げられることに。壮絶な泥仕合が繰り広げられた結果、両者はともに兵も食料もひどく消耗していくことになりました。このように、最終的には袁紹と曹操の根競べの様相を呈していったのでした。
テロリストにも坑道戦は有効だった!?
なんと、1996年に起こった在ペルー日本大使邸占拠事件でも人質救出のために坑道戦が用いられたのだとか。当時ペルーの大統領であったアルベルト・フジモリが坑道戦を提案。トンネルを掘る重機の音がテロリストに気づかれないように、軍歌を爆音で流し続けてカモフラージュしながら、7本ものトンネルを掘りました。
しかし、メディアのスクープによってテロリストにトンネルの存在が気づかれてしまいます。しかし、地下から攻められることを恐れたテロリストたちが人質を2階に集めてくれたため、突入時に人質を傷つけてしまうのではないかという懸念が晴れます。数か月後、テロリストたちのほとんどが1階に集まっていたときに、あたためていた坑道戦を決行。1階の床を地下から爆破し、同時に正面からも部隊が突入。作戦は成功をおさめ、人質のほとんどが無事に救助されたのでした。現代のテロリストにも有効なこの坑道戦。袁紹が2度も同じ作戦を使おうと考えた理由もわからなくはないですね。
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※この記事は、はじめての三国志に投稿された記事を再構成したものです。
元記事:官渡の戦いでも使われ東西を問わず世界中で取られた戦法「坑道戦」って何?