周瑜は三国志の時代に活躍した人物で、三国志を知らない方でも
赤壁の戦いで活躍したイケメンでしょというくらいの知識があると思います。
周瑜は孫呉の為に戦ってきたのですが、
劉備陣営からしたらジャンプ台、噛ませ犬だったのかもしれません。
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この記事の目次
孫呉の勢力拡大に貢献した周瑜だが…
周瑜は孫呉を討伐して天下統一を目指す曹操を赤壁で打ち破り、
孫呉の勢力拡大に大きく貢献。
どれくらい周瑜が孫呉の勢力拡大に貢献したのか。
一例を上げると周瑜が赤壁で曹操軍に勝利したことで孫呉の窮地を救い、
荊州の中心部である江陵をゲットして、
江東だけだった孫呉の勢力を拡大することに成功します。
このように周瑜は孫呉の勢力を拡大することに貢献した武将ですが、
見方を変えれば周瑜が咬ませ犬だったかもしれません。
なぜ周瑜が咬ませ犬なのかそれは…
周瑜は孫呉の勢力を拡大したのにどうして咬ませ犬なのでしょうか。
それは劉備を助けたからです。
なぜ劉備を助けたことが咬ませ犬なのでしょうか。
周瑜のおかげで命が助かり、領土もゲットできたから
劉備は曹操軍の南下からなんとか逃亡して、劉表の息子・劉琦を頼って江夏へ逃亡。
しかし曹操軍は大軍を転がすように江東へ向けて進軍を開始します。
この時魯粛が劉備と会見し孫呉と同盟するように持ちかけた事がきっかけとなり、
孫呉と劉備の同盟が成立します。
周瑜は劉備軍を当てにせず独力で赤壁の戦いで曹操軍を撃破。
周瑜が曹操軍を撃破したことで孫呉の領土も拡大することになりますが、
見方を変えれば劉備軍を助けたとの解釈もできます。
そして劉備は周瑜が江陵を攻略している間に、荊州の南部を制圧することに成功し、
今まで流浪の軍勢であった劉備軍が領土を持つことに。
劉備が荊州南部に領土を持つことができたのも、
江陵で周瑜が曹操軍の武将・曹仁と激闘を繰り広げていた事が原因です。
この事を考えると周瑜を咬ませ犬と辛辣に表現する必要はありませんが、
劉備に利用された形になったのは間違えないでしょう。
江陵をあげてしまったから咬ませ犬になった周瑜
もし周瑜が咬ませ犬だとするのであれば、
苦労して手に入れた江陵を劉備にあげてしまったことでしょう。
周瑜は江陵攻防戦の時、曹仁軍からの弓矢を受けて深手を負ってしまいます。
周瑜は深手を負いながら江陵城を攻撃して、曹仁を退けることに成功しますが、
周瑜も江陵から撤退することになります。
そして周瑜は曹仁軍から受けた深手が原因で亡くなる事に。
その後孫権は周瑜が亡くなったため、
曹操軍の攻撃から江東を守るため戦線を縮小することにします。
孫権は周瑜の後任魯粛の意見を受けて江陵から撤退することに決め、
周瑜が苦労して奪った江陵城を劉備へタダであげてしまいます。
この点は周瑜が劉備の咬ませ犬と言われてもしょうがないように思えます。
いくら戦線を縮小するからといって
周瑜が苦労して奪った江陵城を劉備にタダであげるのは、
周瑜の苦労が報われないと思いませんか。
これでは周瑜が可哀想な気がします。
三国志ライター黒田レンの独り言
更に周瑜が咬ませ犬と言うことを示すのであれば(結果論ですが)、
劉備の為に赤壁、江陵城攻防戦で曹操軍を撃退したと言えるのではないでしょうか。
これは現代で三国志の結果を知ることができる私達の特権ですが、
劉備が益州を取るために周瑜が赤壁で知略を尽くし、江陵城を奪ったと思えてしまうのです。
なぜなら周瑜が頑張った手柄はすべて劉備の物になっているからです。
劉備は周瑜に感謝してもしきれないほどの恩義があり、
周瑜を祀ってもいいような気がするのは気のせいでしょうか。
そして孫呉ファンと周瑜ファンの皆様には
周瑜をディスってしまったことをここにお詫び申し上げます。
すいませんでした!!
参考文献 ちくま学芸文庫 正史三国志呉書等
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