元々はたくさんの部下を召し抱えていた袁術も、その野心をむき出しにしてからは人心がどんどん離れていき、最期には蜂蜜入りの水さえも口にすることができないほどに落ちぶれて亡くなってしまいます。
無念の最期を遂げた袁術でしたが、もしも彼があの孫堅を失ってさえいなければ、袁術は皇帝として中華に君臨していたのではないでしょうか?
たった一人で海賊を蹴散らした孫子の末裔
孫家は代々呉で役人として使えていました。何でもその祖先はあの有名な兵法書『孫子』を編んだ孫武だったのだとか。
ある日、そんな孫家のお墓から五色の雲気が空に向かって数キロメートル立ち昇ります。人々は呆気にとられてこれを眺めていましたが、そんな中で老人たちは「これはただならぬ雲気だ!孫家が興る兆しだ!」と噂しあっていました。
また、その頃孫堅を身ごもっていた母は自分の腸が突然飛び出して呉の西の城門にまきつくという何とも気味の悪い夢を見て跳び起きます。驚いた母は近所のおばちゃんにこの夢を相談したところ、「妊娠中ってのは変な夢を見るものよ。きっとおなかの中の赤ちゃんが素晴らしい子だっていう徴よ。」とおばちゃんに励まされたのでした。
このように数々の怪奇現象に見舞われた孫家でしたが、いよいよ生まれた孫堅はやはり非凡な子どもだったといいます。その非凡さを世に知らしめたのは孫堅が17歳のときのことです。孫堅が父親と共に船に乗って銭唐に出かけてみると、海賊が商人を襲撃して金品を奪っているところに出くわしました。
孫堅は父の制止を振り切り岸に上がると両手を大きくふるい、まるで大勢の味方に合図しているかのように振る舞いました。それを見た海賊たちは慌てて退散。しかし孫堅はその後を追い、そのうちの一人の首をとって戻ってきたのでした。その功績が人々に讃えられて孫堅は召し出され、仮の尉(今でいう警察のようなもの)として役所で勤めることになりました。
順調に出世し、袁術に仕える
その後孫堅は黄巾の乱を含めて数々の反乱を鎮圧。持ち前の豪気な性格で眼前の敵を次々に蹴散らして武功をあげ続け、孫堅はどんどん出世していきました。
途中、韓遂を討伐すべく共に戦っていたはずの董卓があまりにも軍の規則を破るものだから董卓に対して殺意が芽生えるというアクシデントがあったものの、孫堅のもとには多くの人材が集まり、一大勢力を築き上げるまでになったのです。孫堅が烏程侯にまでのぼりつめた後、やっぱりあのムカつく董卓が都で調子づき始めたと耳にした孫堅は袁紹が募った反董卓軍に加わることにします。
孫堅がいた長沙から北にある都・洛陽に向かう際、孫堅はやっぱり自分がムカつくなと感じた奴は実際危険な奴だったし、他のムカつく奴もきっと危険人物だから排除しておこうと考えてかねてから自分を軽んじていた荊州刺史・王叡と南陽太守・張咨を殺害。後顧の憂いが無くなってスッキリした後、孫堅は袁術と出会い意気投合し、袁術のとりなしで豫州刺史となったのでした。
董卓をどつきまわして洛陽から追い出す
反董卓軍に名乗りをあげたものの、まともに董卓軍とガチンコバトルを繰り広げていたのは曹操と孫堅くらいなものでした。ところが、董卓軍の徐栄がどうにも強く、曹操軍は破られ、孫堅軍もやはり敗北を喫しました。それでも孫堅軍は袁術からの手厚い支援を受けて不死鳥のごとく蘇っては戦い、陽人の戦いで董卓軍を大いに破って董卓を追い詰めました。
董卓は何とか孫堅を懐柔しようとするも、孫堅は董卓の誘いには乗らず、絶望した董卓はあろうことか都・洛陽に火を放ちます。ついに洛陽の都に足を踏み入れた孫堅は董卓を追わず、董卓によって荒らされてしまった漢の皇族の陵墓をできる限り修復してから袁術のもとに帰っていきました。
『三国志演義』ではその際に皇帝の証である玉璽を手に入れた孫堅ですが、陳寿の正史『三国志』では言及されていません。忠義の男であったと言われる孫堅ですから、もし玉璽を手にしたとしても、それをこっそり自分のものにするという真似はしなかったのではないかとも言われています。
まさかの犬死に
さて、董卓が長安に逃げたということで反董卓軍も長安に攻め入るかと思ったら、なんと袁紹と袁術の間で戦いがおっ始まります。孫堅が既に豫洲刺史となっていたのに、袁紹が周喁を豫洲刺史として派遣したからさぁ大変。袁術は孫堅と共に周喁を破って豫洲から追い出したのですが、欲をかいた袁術は今度はわざわざ劉表から襄陽を奪おうと孫堅を派遣します。しかし、これが悪手だったようです…。豪気な孫堅は軽はずみにも一人で馬に乗って峴山の山道を通っていたところで敵将・黄祖の部下によって射殺されてしまいました。
三国志ライターchopsticksの独り言
このとき孫堅は37歳。もしもっと長く生きられたら、袁術に天下をもたらしてくれたかもしれません。
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