【諸葛亮vs曹植】言論バトル、前漢の功臣と二十八将どちらが優秀?

2018年8月16日


 

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諸葛亮

 

(しょく)丞相(じょうしょう)諸葛亮(しょかつりょう)と魏の公子、曹植(そうしょく)、直接に会う事は無かった二人ですが、聞こえてくる言論を通じて、お互いに意識し合っていました。二人は性格が反対であったようで、曹植の書いた詩に孔明が反論したりしています。それは1800年前の言論バトルでした。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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曹植光武帝を論じて激白、雲台二十八将はポンコツだ

曹植

 

南朝(りょう)の元帝蕭繹(しょうたく)が著わした金楼子(きんろうし)の巻四「立言篇」には魏の曹植が光武帝(こうぶてい)について言及した論光武(ろんこうぶ)という文章が納められています。それによると曹植は漢の高祖(こうそ)と光武帝を比較してこう言ったそうです。

 

 

光武帝

 

 

曹植「漢の高祖に比べて、光武帝は遥かに才能が豊かであった。高祖は韓信(かんしん)周勃(しゅうぼつ)陳平(ちんぺい)張良(ちょうりょう)のような功臣のお陰で天下を獲れたのでありその天下は重臣たちの手によるものだと言えよう。一方の光武帝は、何から何まで自分でやってしまい、重臣をあてにしなかっただから雲台(うんだい)二十八将と言えども、前漢の建国の功臣には及ばないだろう」

 

この曹植の評論、当時は誠にごもっとも、流石は公子様と賞賛されました。ただ、一人、秦嶺山脈の向こうで政務を執る諸葛亮を除いては

 

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若造、考えが甘いぞ!by諸葛亮

諸葛亮

 

魏から伝え聞いた曹植の論光武、諸葛亮は気に入らないのか、早速反論の文章を書いています。

 

 

「曹植の文は、つまりは光武帝の優秀さを讃える気持ちから出ているようだが、その為に雲台二十八将を(おとし)めている事については頂けない二十八将の忠貞知勇を詳細に見るに下は馬援(ばえん)に至るまで張良や陳平に劣るものではない。では、どうして、張良や陳平の活躍が派手に見えるのか?

 

それは高祖がウッカリもので失敗が多く、張良や陳平はそのフォローで、大車輪で働いているからである

 

陳平と劉邦と項羽

 

(ことわざ)にも、火災を予防する者は賞賛されず、火災を消す者は賞賛されるとある。光武帝の才能は天性で、少しもミスがなく二十八将はその後始末で働く必要がなかったのである。ゆえに諸将は力を合わせて光武帝と共に天下を獲ったのであり、決して無能であったわけではない」

 

孔明の主張では、高祖はウッカリばかりで、韓信や陳平、張良、簫何はその後始末をして大活躍をしたから派手で目立つが、光武帝は、ウッカリがなく水も漏らさない手腕だったので、二十八将は、目立つ活躍の場が無かったのだと言っているのです。

 

 

呉の武将

 

 

 

雲台二十八将は馬援に至るまで光武帝の考えと同じ

馬援

 

また諸葛亮は、光武帝は軍議の最期には馬援に意見を求めているが、馬援の回答は常に光武帝と同じであった事を引き合いに出しています。この一点を持ってしても、雲台二十八将は、光武帝に劣らぬ名臣揃いだが光武帝がヘマをしない(火事を未然に防ぐ)ので、ヘマばかりの高祖に比べ活躍が目立たないと結論づけたのです。この意見が、当の曹植に伝わったかは定かではありません。しかし、曹植の評論は伝わったので逆もまた然りではないでしょうか?

 

 

曹植

 

 

 

「それ位、わかってらい、ちょっと端折(はしょ)っただけなのに、偉そうに批判しやがって」

 

もしかすると曹植は、そのように思ったかも知れません。

 

 

軍を率いて孫権を捕らえ、孔明の首を斬る!

曹植

 

また、曹植は陳思(ちんしおう)になってから、甥の曹叡に対して求自試表(きゅうじしひょう)という詩を贈っています。求自試表は「俺を使って下さい」という意味だと思いますが、その長い漢詩には衝撃的な文字があります。

 

 

雖未能擒權馘亮(未だ孫権(そんけん)を捕らえず、諸葛亮の首を斬らずと言えど)

 

陳思王、曹植は自分が軍を率いて、蜀と呉を討伐して、孫権を捕虜にし、諸葛亮の首(あるいは耳)を斬って手柄を立て史書に名を記さないと生まれた甲斐がないので、どうか自分を使って下さいと曹叡(そうえい)に懇願していたのです。詩文において不朽の名を残した曹植ですが、彼は本来武闘派であり武人になりたがり、詩文なんか趣味だと吐き捨てていて、戦で手柄を立てる事を本望としていました。

 

曹植

 

 

結局、幽閉状態は解除されず曹植は失意の中で酒の害に倒れる悲劇的な結末を迎えるのですが・・

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

しかし、曹植何気に、孫権と諸葛亮と言って劉禅(りゅうぜん)を無視してるんですけどまた、孫権は捕虜にするのに、諸葛亮は首を斬るという表現を見ると論光武で孔明が加えた批判がシッカリ曹植に届いていたのかな?とちょっと穿(うが)ってみたくもなりますね。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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