生物には必ず寿命があり、いつかは亡くなってしまいます。この法則は古代でも現代でも変わりません。蜀を支え続けてきた丞相・諸葛亮も過労がたたってしまい亡くなってしまいます。諸葛亮亡き後、二人の丞相によって蜀の国は安定期に入りますが、この二人の丞相がいなければ蜀の国は滅亡していたかもしれず、蜀が滅亡していれば三国志の歴史が大きく変化していたかもしれません。
蜀の国を支えた二代目丞相・蔣琬と三代目・費禕
蜀は劉備が亡くなり、古参の武将である張飛や関羽、趙雲などの歴戦の武将達も次々に亡くなってしまい人材不足になってしまいます。この人材不足の状態であった蜀を支え続けたのが諸葛亮です。彼は人材を育成しながら国の経済を発展させ、魏・呉の二国になめられないようにするため兵力を蓄えていきます。
この結果、蜀は劉備死後から少しずつ力をつけていき、諸葛亮は魏を討伐するべく何度も挑戦することになります。しかし諸葛亮は蜀の国を強力な国家にするべく一人でいくつもの仕事を抱えていた事が災いして、過労によって病にかかり亡くなってしまいます。そして諸葛亮の死後、諸葛亮が育成した人材達が活躍することなります。
特に蜀の国の安定期をもたらすことに成功し、諸葛亮の跡を継いで蜀の二代目トップとして君臨した蔣琬。そして蔣琬死後三代目トップとして君臨した費禕。この二人の丞相は諸葛亮の跡を継いだのに、諸葛亮の方針である北伐を積極的に行いませんでした。この二人はいったいどうして諸葛亮の方針を受け継がなかったのでしょうか。
北伐を行わないで国力回復に勤しむ
蔣琬と費禕は諸葛亮が行ってきた北伐を積極的に行おうとはしませんでした。そのことで蜀の国は力を回復することになるのですが、どうして二人は諸葛亮の方針である北伐を積極的に行わなかったのでしょうか。その理由は二つあります。
一つ目は諸葛亮が行った北伐によって国力が低下を防ぐことが目的でした。諸葛亮はうまく国力を調整しながら北伐を行ってきましたが、度重なる北伐によって蜀の国力は低下していました。そのため蔣琬と費禕は諸葛亮が行った北伐による国力が低下した状態を回復させるため、北伐を行うことをしないで国力を回復させることに重点を置いて政治を行っていきます。そして二つ目の理由は民衆の暴発です。諸葛亮の北伐によって蜀は国力が低下している状態でした。
その状態で再び北伐を強硬的に行えば蜀の民衆たちの不満が爆発して各地で反乱が起きる可能性がありました。そのため蔣琬と費禕は国力回復を行い、民衆の不満を和らげることに政治の重点を置くために北伐を行いませんでした。そして二人が北伐を行わなかったことで蜀の国の国力は大きく回復することになるのです。
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【北伐の真実に迫る】
蔣琬と費禕がいなければ蜀は滅亡していたかもそして…
もし諸葛亮死後、蔣琬と費禕が居なければどうなっていたのでしょうか。レンは勝手にですがちょっと予測してみました。諸葛亮死後蔣琬と費禕がいなければ蜀の国は10年くらいで滅亡していた可能性がかなり高いと思われます。
その理由は諸葛亮の跡を引き継ぐ人材がいない為です。いやいや姜維がいるじゃないか。と思われる人がいると思います。しかし姜維はまだ武将としても政治家としても経験値が不足しており、諸葛亮の跡を彼が継いだとしても大した事ができず、北伐ばかり行い国力を無駄に消費してしまったと思います。
姜維以外の人材ですと蜀には文官ですと董允や楊儀などの人材がいますが、董允は経験値が不足しており、大局的な政策を行うことができなかったと思われます。また楊儀に関しては癖の強い性格の持ち主であったため、人望が無く諸葛亮の跡を継ぐのは難しかったと思われます。
これらの事を考えると蜀には諸葛亮の跡を継いで国を支えるような人材が乏しく、この状態の時に魏の総攻撃を受けてしまえばなすすべなく蜀が滅亡していたと思われます。そして蜀が滅亡してしまえば三国志は蜀の領土を吸収した魏と呉の二大国家の対決へ発展することになり、超大国になった魏に呉が対抗できず、魏が三国時代を終焉へ導いていたかもしれません。このように考えると蔣琬と費禕がいた事で三国志の時代が大きく変化したと言えるのではないのでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
蔣琬と費禕がいなければ上記でも説明した通り、蜀の滅亡が早まり三国時代が統一される時期が早まったかもしれません。そして三国時代の統一時期が早まれば司馬家による晋王朝が誕生しなかったかもしれません。このように考えると蔣琬と費禕がいた事は歴史を大きく変化させることになった二人と言えるのではないのでしょうか。
参考 正史三国志魏書など
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