諸葛亮の末裔たちの村がある!諸葛八卦村と諸葛亮の子孫についてご紹介

2018年11月10日


 

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諸葛孔明

 

曹操(そうそう)はもちろんのこと

劉備(りゅうび)孫権(そんけん)といった

主君格の妻子事情というものは

歴史書にも事細かに記されます。

 

その反対に臣下たちの妻子については

けっこうなおざりですよね。

そのため、

「いつの間にか結婚していて、

その上子どもまでこさえてた!」

とビックリさせられることも多いでしょう。

 

実は諸葛亮(しょかつりょう)もいつの間にやら結婚していて

いつの間にやら子を成していた臣下の1人。

そして更に驚くべきことに

その子孫が数千人集まって住んでいるという村があるのだとか…!

 

今回は諸葛亮の子孫について

ご紹介していきたいと思います。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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唯一の子・諸葛瞻

唯一の子・諸葛瞻

 

諸葛亮は劉備と出会うより前に

黄夫人(こうふじん)という女性と結婚していました。

しかし、2人の間にはなかなか子ができず…。

結婚してから数十年経って

ようやく子を授かります。

その子の名は諸葛瞻(しょかつせん)

 

年を取ってからの子であったからか

諸葛亮の溺愛ぶりは凄まじく、

「あんまり早熟だから将来が心配だよ~」

なんて兄の諸葛瑾(しょかつきん)にのろけまくっていたそうです。

 

しかし、

やはり諸葛亮ほどの能力は無かったようで

宦官の黄皓(こうこう)に翻弄され、

結局37歳という若さで

魏の鄧艾(とうがい)との戦いの最中に戦死してしまいます。

 

ただ、諸葛亮には

諸葛瞻が生まれる前に

兄から養子として譲り受けた諸葛喬(しょかつきょう)

実在したかは怪しいものの

諸葛懐(しょかつかい)という末っ子がいたと言われています。

 

末っ子については

清代になって作られた

ホラ話という説が有力なのだそうです。

 

 

 



父と共に散った諸葛尚と生き残った諸葛京

父と共に散った諸葛尚と生き残った諸葛京

 

諸葛瞻には諸葛尚(しょかつしょう)諸葛京(しょかつけい)という

2人の息子がいました

諸葛亮にとっては孫にあたる存在ですね。

 

諸葛尚は父・諸葛瞻と共に

鄧艾(とうがい)との戦で亡くなってしまいましたが、

諸葛京の方はまだ幼かったので

戦争にも参加していませんでしたし、

蜀漢が解体された際にも命を奪われることはなく、

ただ河東に移住させられただけでした。

 

その後成長した諸葛京は

竹林の七賢の1人である山濤(さんとう)に推挙されて

西晋王朝に仕えることになり、

最終的には江州刺史にまで出世します。

諸葛京はかなり優秀な人物だったようですね。

 

ちなみに諸葛瞻にはもう一人

諸葛質(しょかつしつ)という子がいたようですが

彼が実在の人物であったかどうかは

ちょっと怪しいところです…。

 

一騎打ち

 

元代に諸葛村ができる

元代に諸葛村ができる

 

その後、諸葛亮の子孫は

表立って活躍を見せることは無くなりましたが、

ひっそりとその系譜をのばし続けていたようです。

 

諸葛京が江州、

すなわち今の江西省あたりに根を下ろしたことにより

諸葛一族はそこで子孫を代々残していったのですが、

唐が滅亡する頃に

戦乱に巻き込まれることを忌避した諸葛浰(しょかつれん)が浙江省にお引越し。

 

以後浙江省で諸葛一族が

栄えることになったのだそうです。

その後元代に生まれた諸葛大獅が

子孫たちのために

とある村を買い取って

要塞のような村を作ります。

 

この村は太極図を思わせるような形の池を取り囲むように

八卦陣を思わせる街並みが形成されているのですが、

敢えて激しい起伏のある道を作ったり

行き止まりに見えるような場所を作ったりして

余所者の方向感覚を狂わせるのだそう。

 

そのためにこの村は

いつからか諸葛八卦村と

呼ばれるようになったのでした

 

 

諸葛八卦村の今

 

要塞都市である諸葛八卦村では

現代でも諸葛一族が幸せに暮らしているのだそう。

その村に住む諸葛さんは数千人。

たった1人の子どもから

よくぞそこまで数を増やせたものです。

 

浙江省といえば

日中戦争当時には日本の支配下に置かれていましたから

その被害も相当なものだったと予測されますが、

なんと諸葛八卦村は日本軍に見つかることなく

特に被害を受けずに済んだのだそう。

 

そのため、

諸葛八卦村では

ノスタルジックな中国の街並みを

今でも楽しむことができるということで

人気の観光地となっています。

 

皆さんも中国に遊びに行く機会があれば、

是非諸葛八卦村に足を運んでみてください。

   

 

三国志ライターchopsticksの独り言

 

歴史上の有名人の子孫を名乗る人はたくさんいますが、

この諸葛八卦村については

かなり信憑性が高いのだとか!

 

もし諸葛亮の遺骨が見つかったら

DNA鑑定をしてその真相を

明らかにしてほしいですね。

 

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