曹操はもちろんのこと劉備や孫権といった主君格の妻子事情というものは歴史書にも事細かに記されます。その反対に臣下たちの妻子についてはけっこうなおざりですよね。そのため、「いつの間にか結婚していて、その上子どもまでこさえてた!」とビックリさせられることも多いでしょう。
実は諸葛亮もいつの間にやら結婚していていつの間にやら子を成していた臣下の1人。そして更に驚くべきことにその子孫が数千人集まって住んでいるという村があるのだとか…!今回は諸葛亮の子孫についてご紹介していきたいと思います。
唯一の子・諸葛瞻
諸葛亮は劉備と出会うより前に黄夫人という女性と結婚していました。しかし、2人の間にはなかなか子ができず…。結婚してから数十年経ってようやく子を授かります。その子の名は諸葛瞻。
年を取ってからの子であったからか諸葛亮の溺愛ぶりは凄まじく、「あんまり早熟だから将来が心配だよ~」なんて兄の諸葛瑾にのろけまくっていたそうです。
しかし、やはり諸葛亮ほどの能力は無かったようで宦官の黄皓に翻弄され、結局37歳という若さで魏の鄧艾との戦いの最中に戦死してしまいます。ただ、諸葛亮には諸葛瞻が生まれる前に兄から養子として譲り受けた諸葛喬と実在したかは怪しいものの諸葛懐という末っ子がいたと言われています。末っ子については清代になって作られたホラ話という説が有力なのだそうです。
父と共に散った諸葛尚と生き残った諸葛京
諸葛瞻には諸葛尚と諸葛京という2人の息子がいました。諸葛亮にとっては孫にあたる存在ですね。
諸葛尚は父・諸葛瞻と共に鄧艾との戦で亡くなってしまいましたが、諸葛京の方はまだ幼かったので戦争にも参加していませんでしたし、蜀漢が解体された際にも命を奪われることはなく、ただ河東に移住させられただけでした。
その後成長した諸葛京は竹林の七賢の1人である山濤に推挙されて西晋王朝に仕えることになり、最終的には江州刺史にまで出世します。諸葛京はかなり優秀な人物だったようですね。ちなみに諸葛瞻にはもう一人諸葛質という子がいたようですが彼が実在の人物であったかどうかはちょっと怪しいところです…。
元代に諸葛村ができる
その後、諸葛亮の子孫は表立って活躍を見せることは無くなりましたが、ひっそりとその系譜をのばし続けていたようです。諸葛京が江州、すなわち今の江西省あたりに根を下ろしたことにより諸葛一族はそこで子孫を代々残していったのですが、唐が滅亡する頃に戦乱に巻き込まれることを忌避した諸葛浰が浙江省にお引越し。
以後浙江省で諸葛一族が栄えることになったのだそうです。その後元代に生まれた諸葛大獅が子孫たちのためにとある村を買い取って要塞のような村を作ります。この村は太極図を思わせるような形の池を取り囲むように八卦陣を思わせる街並みが形成されているのですが、敢えて激しい起伏のある道を作ったり行き止まりに見えるような場所を作ったりして余所者の方向感覚を狂わせるのだそう。
そのためにこの村はいつからか諸葛八卦村と呼ばれるようになったのでした。
諸葛八卦村の今
要塞都市である諸葛八卦村では現代でも諸葛一族が幸せに暮らしているのだそう。その村に住む諸葛さんは数千人。たった1人の子どもからよくぞそこまで数を増やせたものです。
浙江省といえば日中戦争当時には日本の支配下に置かれていましたからその被害も相当なものだったと予測されますが、なんと諸葛八卦村は日本軍に見つかることなく特に被害を受けずに済んだのだそう。
そのため、諸葛八卦村ではノスタルジックな中国の街並みを今でも楽しむことができるということで人気の観光地となっています。皆さんも中国に遊びに行く機会があれば、是非諸葛八卦村に足を運んでみてください。
三国志ライターchopsticksの独り言
歴史上の有名人の子孫を名乗る人はたくさんいますが、この諸葛八卦村についてはかなり信憑性が高いのだとか!もし諸葛亮の遺骨が見つかったらDNA鑑定をしてその真相を明らかにしてほしいですね。
関連記事:幻の必殺陣形・八卦の陣とは?三国志演義と諸葛亮孔明の八陣図
関連記事:【経営者・人事必見!】諸葛亮孔明から学ぶ7つの人材登用ポイント!